太田三郎の絵葉書 《羽子板を持つ少女》
1 おそらく雑誌付録の絵葉書
《羽子板を持つ少女》は、かりの題である。
右にミシン目が見られるので、雑誌の付録を切り取って使ったものと思われる。
右下に「1908」とあるので、明治41年の新年号の付録であろう。雑誌名は特定できていない。
宛名面の仕切り線は、下3分の1の位置にあるので、明治40年12月発行の新年号の付録と考えることができるだろう。
前景に松葉、うしろに羽子板を持つ、正月の装いの少女が描かれている。
石版印刷で6色か7色。転写紙を用いていると思われる。草履の部分にドットが出ている。
2 子どもを描く2つの方向
太田三郎の子どもの描き方には2つの流れがあり、ひとつはこうした品のある写実的な傾向、もうひとつは漫画、草画の影響を受けた略画的傾向を示している。
前者の写実的傾向を示すものとして巌谷小波(1870−1933)の『をぢさんお伽噺』(明治43年12月、三立社)収録の「第五 極楽園」に寄せた挿絵をあげておこう。
「第五 極楽園」は、旧約聖書のアダムとりんごの説話をふまえた、王子が不思議な夢を見るという話である。
後者の略画的傾向を示すものとして、村田天来・太田三郎・山田実・服部英郎の共著『ヘボ画集』(明治45年7月、尚栄堂)から、多色木版の口絵の《土着の子と移住の子》をあげておこう。右の子どもたちは、色味の乏しい衣服を身につけ、年長の子は子守をしている。左の子は大きなリボンを付けカラフルな衣服を身につけて豊かさを示している。
「下渋谷にて」とあるが、当時の豊多摩郡渋谷町の地名で、明治末では農村的空気を残した郊外にあたり、新興の住宅が開発され始めた頃である。豊かさを示す左の子どもが、新興の郊外にやってきた「移住の子」であろう。
子どもたちは寸胴で、手足が大きい。竹久夢二には見られない、太田三郎独自のスタイルである。
共著とはいうものの太田は『ヘボ画集』には2枚の口絵を寄稿しているだけである。スケッチ画の画集を刊行した実績がある太田は、山田実(1889−1925)とつながりがあり、声をかけられた可能性がある。
山田実は、東京美術学校西洋画科在学中に明治44年の第5回文展に出品した《浅草の裏》が洋画壇の話題となった。山田は大胆な略筆画のタッチで、風刺的で、滑稽味のあるコマ絵を描いた。
3 通信文を読む
絵葉書はおそらく、子どもから子どもに宛てて出されたものである。
文法的な不十分さも見受けられるので、10歳くらいの年齢だろうか。
中央下部の名前と日付は「うし之/一月六日」でよいだろうか。女子の名前としては「よし之」と読むほうがよいかもしれない。
*参考 『ヘボ画集』についてのブログ過去記事
【付記】2023/09/03 14:27
記事をアップしてから、少し考え直す点が出てきた。
本文では、通信文について子ども同士のやりとりとしたが、文字から見て、発信人は、宛先の子どもより年長者の可能性もあると思える。10代後半なのか、もっと年長なのかはわからないとしておこう。
*ご一読くださりありがとうございました。