さて、『欧洲婦人風俗』には6枚の女性画像が収められ、その画像のページの裏に解説文が印刷されている。
今回は、後半の3枚の絵を紹介して完結の予定であったが、4枚目の紹介のみにしたい。したがって(下の1)とする。
また、(中)について、読者の方から指摘をいただいたので、最後にそのことを記しておく。
1 潮風
4枚目は、オランダのマルケン島の衣装の女性を描いた《潮風》である。
「古渡」とあるのは、昔の、狭義では、室町時代以前に外国からわたってきた織物や陶磁器を指すことばである。
狩野内膳が描いた南蛮屏風について、『国史大辞典』の解説は次のように述べている。
南蛮屏風とは、上記に言うように、「ポルトガル系の外国人」を描くものを総称していたが、太田が述べているオランダ人をあつかったものは、時期も「維新前の例の黒船騒ぎの頃」とされているので、「南蛮人渡来図」に分類されるものなのだろう。
《潮風》に描かれた衣装については、太田は次のように記している。
マルケン島は、オランダ西部のマルケル湖にある小さな島である。漁業を生業とする住民がほとんどであった。
太田が描写しているマルケン島の民俗衣装は、杉野学園衣装博物館というサイトのデータベースにも「23.オランダ民族衣裳」として見出すことができる。
解説を引用しておこう。
データベースの絵と、太田の絵は、スカートの色が異なるが、衣装の構成は同じである。
太田は、その家の主婦に頼んで、ある民家の中を見せてもらう。
太田は残された写真から判断すると、それほど身長は高い方ではない。小柄な東洋人が不意に訪れてきて、その家の娘は驚異の瞳を向けた。
主婦が示した歓待の振る舞いには、なにか文化的な背景があるのだろうか。
谷井類助『欧洲見物所どころ』(昭和8年6月、大同書院)という本があって、マルケン島を訪ねたことが記されている。時期的には、太田の訪問より約10年ほど後のことだと思われるが、太田の場合と似たことが記されている。谷井が土産物店に寄ると、そこの主婦が家を見ていかないかとすすめてくる。谷井は風景に見るべきところもないので、来訪者の多くは「土地の風俗又は室内の模様などを、興味深く眺めて帰るものらしい」と記している。主婦も、そうした先例から自宅に招いたのではないかと、谷井は推測している。
家の中も太田の描写との相似を見出すことができる。家の中はこぎれいにしてあり、「客室には壁間に、色々の陶器皿を多数飾り附けてゐた」という。ちがうのは、谷井が魚油の臭いに耐えかねているところである。
マルケン島では木靴を脱いで家に入ったという。
主婦が前掛けをはずして敷いてくれたのは、ここにクツを脱いで、という意味だったのかもしれない。
2 《シシリイ島の初夏》補足
読者から太田三郎のシシリー島旅行について、『美と善の歓喜』(昭和17年9月、崇文堂)に「シヽール島の「希臘」」という文章が収められているという指摘をいただいた。
この本は、考証エッセイを集めたものとして認識していたが、欧州の旅に取材したものも含まれている。国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信資料として参観することができる。
調べると、「シヽール島の「希臘」」の初出は雑誌『中央美術』の第14巻第3号(昭和3年3月)、第5号(昭和3年5月)、第6号(昭和3年6月)に、上・中・下の3回に分けて連載された。ただし、タオルミナから眺めるエトナ山の眺望にふれているのは単行本化したときに末尾に付加された部分である。
太田は、単行本で付加した部分に次のように書いている。ルナンがタオルミナの劇場遺跡を激賞していることを紹介した後の記述である。
「橄欖樹」はオリーブの誤称。「パルミエ」は椰子の木。
植物が作りなす緑色の層を下にたどるとそこに紺碧の海があり、その向こうには空が広がっている。
挿絵を紹介しておこう。
昭和に入ると、太田のスケッチは、線の少ない略筆画のような感触を増してくる。
太田がエトナ山を見て想起した静岡清水の龍華寺から見た富士山の眺望をとらえたパノラマ絵葉書も紹介しておこう。
朱印は、「天下第一観」「龍華寺」とある。
*ご一読くださりありがとうございました。