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『白樺』の木版:ムンクの《心臓》
雑誌『白樺』は、多くの西洋美術を図版とともに紹介した。
今回は、エドヴァルド・ムンクを特集した『白樺』第3巻第4号(明治45年4月、洛陽堂)を取り上げたい。
オリジナルの作品を木版に模刻することについて、紹介したい。模刻とは石版や、木版のオリジナル作品を木版画として複製することをさしている。
1 『白樺』のムンク紹介
『白樺』はどのようにムンクを紹介したか、寺口淳治氏の解説を引用しよう。
まず、日本で最初のムンク紹介を行ったのは『白樺』第2巻第6号(明治44年6月、洛陽堂)であるという。
日本でこのムンクがはじめて紹介されるのは、「白樺」の第二巻第六号 (一九一一〔明44〕・六)である。 一枚の版画と武者小路実篤による短い文章によるものであるが、その文章は「彼は詩人としてイプセン、ビョルンソン等を生んだノルウェーの最大画家である」とはじめられている。 イプセンは一九〇六年に亡くなるが、このことを契機として日本におけるイプセン紹介や研究は非常な盛り上がりを見せていた。武者小路は、ムンクが「油画をかくが版画家として更に有名」で、その絵には「肉眼を以つて見られるものが描かれてゐない。彼の心の底にうつるものが描かれてゐる」と、端的に紹介する。
(木股知史編『近代日本の象徴主義』2004年3月、おうふう)
武者小路実篤は、油絵画家としての活躍のみならず、ムンクの版画家としての側面に注目している。また、心的な内部世界の表現としての象徴性に注目している。
さらに、ムンクについての本格的な特集を組んだのが、今回取り上げる『白樺』第3巻第4号(明治45年4月、洛陽堂)である。
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表紙画は南薫造で、描かれた樹木は幹と葉の形状から白樺の木と推定される。黄色の地に黒を重ねた2度刷りの木版画である。
南薫造の経歴は下記のとおり。
南 薫造 (みなみ・くんぞう/1883~1950年)
広島県生れ。1907年東京美術学校西洋画科卒。07年渡英、仏。10年白馬会会員。白樺社主催滞欧展開催。11、12、13、15年文展二等賞。13年日本水彩画会創立に参加、評議員。18年光風会会員。32年東京美術学校教授。37年帝国芸術院会員。44年帝室技芸員。50年広島県で没、66歳。洋画、美教、水彩、版画
https://wa-nokai.org/5500ryakureki/index.html
南は、東京美術学校西洋画科卒業で、渡欧の後、白馬会会員となり文展で入賞を重ねて、美術学校教授、帝国芸術院会員、帝室技芸員となっている。洋画家として成功した典型的な歩みである。
南は、『白樺』と関わりが深く、一時期は木版画も積極的に制作した。
さて、『白樺』第3巻第4号(明治45年4月、洛陽堂)の本格的なムンク特集について、寺口氏は次のように指摘している。
この後一年を待たずに、本格的な紹介が 『白樺』第三巻第四号(一九一二〔明
45〕・四)で行われる。 口絵に色刷りの《心臓》、裏表紙に《叫び》の他計八点の図版が掲載され、武者小路がドイツで発行されていたムンクの書籍を参考に、一五ページにおよぶ文章を書いている。 そこでは「死と面接してゐる生の力が如何にも強く顕れてゐる」、「直ちに描かうとするもの、核をつかみ出さないではおかない」とその本質を述べ、誰もがあまりつきつめて考えることのない「死」に対峙し、それに顔を背けることなく制作していること、そしてそれが「彼の慰藉である、同時にすべての人の慰藉である」と、まず何よりも自己のため、そしてそれこそが全人類的なものとなるという白樺流の芸術を体現する人物として紹介する。
(木股知史編『近代日本の象徴主義』2004年3月、おうふう)
寺口氏が引用しているのは、「無車」名義で書いた「エドヴァード・ムンヒ」の一節である。武者小路実篤は、芸術が自己の表現であり、それが人類全体に共有されるものとなるとき普遍性が生まれると考えていた。
ムンクの、心象を直接表現する象徴的作風も、自己表現の徹底という点で評価される。自己表現の徹底が、従来の写実的表現から離脱した斬新な表現を肯定することとなり、それが、武者小路実篤の影響下から、恩地孝四郎、田中恭吉らの創作版画誌『月映』のような前衛的表現が生まれた理由である。恩地も田中も『白樺』の読者であった。
2 口絵木版の《心臓》
まず、口絵の木版《心臓》を紹介しよう。オリジナルは、1899年の作品である。
女性が心臓に口をつけようとしている。女性のイノセントな感じと、心臓を口にするという行為の矛盾が、愛と破壊のパラドックスを表現している。
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ムンク《心臓(Das Herz.)》
「無車」名義で書かれた「エドヴァード・ムンヒ」から、《心臓》の解説部分を引用する。
「心臓」(口絵)原は木版で千八百九十九年の作である。一つの版木を三つに鋸割したものである。女の身体の処を灰色藍で、心臓の処を赤で、背景を黒でぬつて一度ですつたものである。出来るだけ単純で出来るだけ感じを強く顕はす彼の才が之にも覗ふことが出来る。大きさは竪八寸餘り、横六寸弱。
オリジナルは、1枚の版木を3つに、鋸で分割して、インクをのせて合わせて1回摺りしたものである。
残念ながら、図版としては掲載できないが、オリジナルの木版と比較すると、手の指の線が口絵のほうが細く、差異があることがわかる。
この『白樺』の模刻も、鋸による版木の分割にならって制作されたようだ。下部の黒と灰藍色の部分のずれがそれを物語っている。
それぞれの部分に板目が出ているのがわかる。
拡大図を示してみよう。
![](https://assets.st-note.com/img/1721126968947-oSB3IKF6QC.jpg)
口絵木版ムンク《心臓(Das Herz.)》部分拡大図
拡大したのは、女性の鼻先と、心臓、背景の黒地の部分である。
背景の黒の部分は板目がはっきり出ている。
灰藍色の女性の顔の部分はインクの量が多く、板目はあるが、黒の部分ほど目立っていない。
心臓の赤の部分もインクの量が多く、木版独特の斑紋がみられる。
『白樺』掲載の《心臓》は、もちろんオリジナルではなく、模刻されたものだと推定される。
この模刻について、山田俊幸氏は次のように指摘している。
『白樺』 のムンク紹介のよりどころとされたマックス・リンデの『ムンク』 (ベルリン刊)にこの二点(引用者注ー《宇宙に於ける邂逅》と《心臓》)が、 彩色の図版として入っているのだ。 明治44年10月の 《白樺主催泰西版画展覧会》 に出品された版画、出品番号168 「心臓」と169「宇宙に於ての邂逅」 が、はたしてオリジナル作品であるのか、あるいはマックス・リンデの本のリプロダクションの彩色版か、じっさいのところ決めかねる。 リンデの本からは、明治45年4月刊の『白樺』 四月号に、モノクロの油彩の写真図版とともに、「心臓」 が彩色の木版画に起こされて巻頭を飾った。 その彩色木版画「心臓」は、今でも強烈な印象で目に飛び込んでくる。 この三色のみごとなリトグラフ作品の木版起こしは、 おそらくは木版職人による起こし(リプロダクション)だろうが、 それ以前には、経済的理由による 『白樺』 同人の手になるヴァロットンなどの版の起こしもあった。 木版の起こしを彼らは手ずから行いもしたのだった。この簡易な模刻木版は、初期の創作版画にもっとも近い試みだと言うことができるだろう。
図録『日本の版画1911−1920 刻まれた「個」の饗宴』(千葉市美術館編集、東京新聞発行、1999)所収
*引用に際して図版番号は省略した。
山田氏が言及しているマックス・リンデの本は、下記の本であろう。
LINDE, Max. Edvard Munch und die Kunst der Zukunft.Berlin 1902.
武者小路実篤のの解説文「エドヴァード・ムンヒ」もこの本を参照しており、この本の掲載図版からムンクの作品にふれた可能性があると、山田氏は指摘している。
《心臓》の図版もこのリンデの本に石版(リトグラフ)で収録されていたという。その石版の図版から、木版におこしたのが、『白樺』の口絵の木版ではないか、というのである。
武者小路実篤は、《心臓》の石版(リトグラフ)の価格を17円50銭(35マルク)だと、「エドヴァード・ムンヒ」に記している。しかし、「大概売り切れらしい」と書いているので、購入したかどうかはわかない。
山田氏の指摘で重要なのは、こうした模刻の木版が、初期の創作版画に近い試みであるという点である。
ムンクの木版画は、板目のざらつきを版の表現として効果的に取り入れている。その複製を木版で作ることは、版画の表現の独自性を追体験することになり、模刻でありながらも、創作版画の萌芽をその中に含んでいたのである。
記録は残されていないが、たとえば、恩地孝四郎や田中恭吉がこの『白樺』掲載の《心臓》を見たときに、木版画の可能性について啓発された可能性は十分あるのではないだろうか。
3 裏表紙の《叫び》
ムンク特集の『白樺』第3巻第4号(明治45年4月、洛陽堂)の裏表紙はムンクの《叫び》が印刷されている。
![](https://assets.st-note.com/img/1721194764790-iDHUq4uIO3.jpg?width=1200)
まず、武者小路実篤の「エドヴァード・ムンヒ」から《叫び》の解説部分を引用しよう。
「叫び」、(裏絵) 石版、千八百九十五年の作 絵の下に左の句がかいてあるさうである。
「叫び、我は自然を通して大なる叫びを感ず。」
後ろに話ながらゆく二人の男にはこの絵にかゝれた景色は平和な、然らざれば平凡な景色であらう。しかし前に耳をおさえて目をむいて口をあいて、ふるえてゐる男の心は自然の恐ろしい叫びが聞えてゐるのであらう。線が変に動いてゐる。堅一尺一寸五分、横八寸三分、この原の石版は十二円五十銭で売つてゐる。
《叫び》のオリジナルは石版で、同じモチーフの油彩画《叫び》(1893年制作)がもとになっている。
ベルリンに滞在したあと、ムンクは1895年6月にクリスチャニア(オスロの旧称)に戻り、石版の《叫び》を印刷した。わずかな批評家を除いて、この狂気に充ちた作品を肯定的に評価する者はなかった。
だが、フランスに《叫び》を評価する者が現れた。タデ・ナタンソンによってパリで創刊された批評誌La Revue blanche(『白色評論』)は1891年から1900年まで刊行され、象徴主義の普及に大きな役割をはたした。ナタンソンはクリスチャニアを訪れ、ムンクの作品を目にして、La Revue blancheの1895年12月号に《叫び》の石版(リトグラフ)を掲載した。
武者小路は《叫び》の大きさについて、「堅一尺一寸五分、横八寸三分」と記している。
比較のために、シカゴ美術館蔵の石版(リトグラフ)《The Scream》の画像を紹介しておこう。
![](https://assets.st-note.com/img/1721352012477-lS0NNTHSdx.jpg?width=1200)
https://www.artic.edu/artworks/17229/the-scream
2024/07/19参照
図の下にドイツ語で、"Geschrei"という表題が記され、下部右に"Ich fuhlte das grosse Geschrei durch die Natur"と記されている。武者小路実篤は「叫び、我は自然を通して大なる叫びを感ず。」と訳している。
『白樺』裏表紙の《叫び》と比較すると、線がなめらかであるように感じられる。
シカゴ美術館の解説によると、大きさは、図そのものが35.5 × 25.3 cm 、用紙全体が 51 × 38.5 cmである。武者小路の「堅一尺一寸五分、横八寸三分」という記述は、図の大きさにほぼ対応している。
『白樺』第3巻第4号(明治45年4月、洛陽堂)の裏表紙の《叫び》の図の大きさを計測すると、12.9 × 9.2 cm で、縮小されている。
写真複製を使えば、オリジナルからのサイズ変更は自由にできる。
『白樺』裏表紙の《叫び》の拡大図を示してみよう。
![](https://assets.st-note.com/img/1721354225189-5aZT3FRlFD.jpg)
部分拡大図
人物の顔の右側の部分の拡大図である。
中央にタテに走っている太い線の様子に着目したい。
よく見ると、不規則な円形の文様が重なりながらひろがっているのがわかる。経験的にはこうした文様が出るのは金属版(亜鉛凸版)か木版の特徴である。
当時は、直接木版、金属版から転写するのではなく、紙型鉛版にうつしてから印刷するのが一般的であった。紙型鉛版でも忠実に木版、金属版(亜鉛凸版)の版面の凹凸は複製される。だから、紙とインクが触れる際に、文様が現れる。
もう一つ、橋の上の様子の拡大図を示してみよう。
![](https://assets.st-note.com/img/1721354891206-1LEByMD5RW.jpg?width=1200)
右の太い黒の部分は、やはり、木版か金属版(亜鉛凸版)の版面の特徴が出ているように見うけられる。
多色木版の版面の拡大分析については、下記記事を参照されたい。
また、直接版木から印刷した場合の木版の版面の拡大分析については、下記ブログ記事を参照されたい。
木版と金属版(亜鉛凸版)の版面比較については、下記ブログ記事を参照されたい。
さて、『白樺』裏表紙の《叫び》の特徴は下記の2点である。
①オリジナル石版のサイズから縮小されている。
②版面には木版か金属版(亜鉛凸版)に見られる紋様が見出される。
縮小が写真製版で行われたのなら、そのまま、金属版(亜鉛凸版)で製版し印刷することができる。だから、木版にする手間は不要に思われる。
だが、ほんのわずかだが、木版による起こし(複製)である可能性も捨てがたい。
確定的に断定するのは避けておこう。
本稿は、当時の読者が、雑誌に印刷された版画から、どのような視覚的触感を得ていたかを追体験する試みである。
*ご一読くださりありがとうございました。