竹久夢二「スケッチ帖より(「挿画談」をよみて)」⑤
これまで、生方敏郎の記事「挿画談」(明治43年2月20日「読売新聞」日曜附録)への竹久夢二の反論記事「スケッチ帖より(「挿画談」をよみて)」(明治43年3月6日、「読売新聞」)を順次読んできた。
今回が最終回である。
この文章は、研究上、重要な文献をじっくり読んでいくというスロー・リーディングの試みである。
これまでの①〜④は以下のとおり。
「アメリカ風のイラストレーシヨン」とは
生方敏郎への反論の中核部分である「内から描いた絵」という考え方を提示したあと、竹久は文章の締めくくりに入る。
竹久の考える「無声詩」としての絵が、メディア内で席を得ることができれば、無意味な線画、すなわち当時の一般的なコマ絵は消滅するだろうとして、次のように記している。
「無声詩」としての絵、すなわち感情を込めた絵が自立すれば、スケッチ的コマ絵は廃れて、「文字に対照してはじめて意味をなすもの」としての「外から描いた絵」、すなわち小説の挿絵などは、「アメリカ風のイラストレーシヨンが必要」とされるだろうという見通しを、竹久は示している。
この「アメリカ風のイラストレーシヨン」というのがわかりにくい。
おそらく、アメリカの挿絵の初期は、イギリスのビクトリア時代に盛んであった精緻な表現が移入されていたと推測される。
たとえば、澤入要仁氏の「挿絵のなかのエヴァンジェリンたち : 19世紀アメ リカの大衆詩とイラストレーション」(2007年12月20日、『国際文化研究科論集』 15号、東北大学大学院国際文化研究科)という論文では、ヘンリー・ワッズワス・ロングフェロー(1807−1882)のイラスト版『エヴァンジェリン』の挿絵について検討している。『エヴァンジェリン』は、ゲーテの『ヘルマンとドロテア』を下敷きにして、一組の男女が別離にいたる経過を描いた長編抒情詩である。
澤入氏は、18世紀末までは板目木版、銅版が主流であったが、19世紀初頭から「木口版」が使われるようになり、19世紀中頃にイラスト版の書物が多く作られたという。また、電鋳版による版の複製と、高速輪転機によって大量印刷が可能になったという。
澤入論文には、イラスト版『エヴァンジェリン』の精緻で写実的な挿絵が多数紹介されている。
https://core.ac.uk/download/pdf/235941284.pdf
雑誌collier's(『コリアーズ』)について
荒木瑞子氏の『竹久夢二の異国趣味』(私家版、平成17年1月18日)に「英語への興味」という1編が収められていて、そこに興味深い記述がある。
竹久は、気に入った絵や素材として使えそうな絵を切り抜いて貼付した切り抜き帖を作っていた。荒木氏はその切り抜き帖を参観したらしく、ドイツの雑誌『ユーゲント』に掲載された挿絵などが切り抜かれているという。
その切り抜き帖にアメリカの雑誌の表紙画が見られるとし、荒木氏は次のように記している。
『コリアーズ』は、ピーター・フェネロン・コリアー(1849−1906)によって創刊された。コリアーは17歳の時にアイルランドからの移民としてアメリカに渡り、最初は神父になろうとしたが、カトリック関係の出版社につとめ、独立して定期購読のシステムを考案し、部数を伸ばした。
英語版ウィキペディアのCollier'sの項にその歴史が記されている。
それによると、1892年には25万部に達し、1895年にCollier's Weekly: An Illustrated Journalという誌名になり、さらにCollier's Weekly: An Illustrated Journal of Art, Literature & Current Eventsというものに変わったという。
挿絵に力を入れていたこと、美術・文学だけでなく、時事にも関心があることが誌名から読みとれる。調査報道に力を入れたとも記されている。
荒木氏は『コリアーズ』の記事を読んだことはないと記しているが、筆者も残念ながら見たことがない。
荒木氏はアメリカのイラストレーターについて次のように記している。
ここに紹介されている3人のイラストレーターについてニューヨーク公共図書館のデジタルコレクション(New York Public Library Digital Collections )で検索したところ、スミス、パリッシュ、ライエンデッカーの『コリアーズ』の表紙画を見つけることができた。
これから紹介するものは竹久の切り抜き帖にあげられているものと同じものではない。ただ、それぞれの作風と、『コリアーズ』の表紙画の雰囲気を読者に感じとってもらうことはできるだろう。
まず、「子どもの絵を多く描いたジェシー・ウィルコックス・スミス」。ジェシー・ウィルコックス・スミス(Jessie Willcox Smith,1863−1935)はペンシルベニアのフィラデルフィア近郊で生まれた、1888年にペンシルベニア美術アカデミーを卒業し、『レディース・ホーム・ジャーナル』に就職し、広告部門の仕事を担当した。
会社に在籍しながら、スミスは1894年にドレクセル・インスティテュートに入学し、イラストレーション作家として活躍していたハワード・パイルの指導を受けた。
スミスは多くの雑誌にイラスト(挿絵)を提供し、アメリカのイラストレーションの黄金時代を代表する作家の一人となった。子どもを描くことが多かった。
紹介するのは『コリアーズ』1904年4月30日号の表紙画《The May Pole》をポスターにしたものである。
欧州では、春の到来を祝い、5月1日(メイデー)に花などで飾られたメイポールを広場に立てて、柱についたリボンをもって躍るという風習があった。
太い輪郭線が入っているが、アルフォンス・ミュシャの様式につうじるものがある。
次に「光の画家といわれたマックスフィルド・パリッシュ」を紹介しよう。
マックスフィールド・パリッシュ(Maxfield Parrish,1870ー1966年)は、スミスと同じくフィラデルフィアの出身で、1892年から1895年までペンシルベニア美術アカデミーで学び、卒業後、やはりドレクセル・インスティテュートのハワード・パイルのもとで修練を積んだ。
彼は、ファンタジックな世界を華麗な色彩で描いた。最も成功したイラストレーターであり、『コリアーズ』の表紙画を80枚描いたという。
下記にリンクしたのは、1904年12月3日号の『コリアーズ』の表紙である。
3人の羊飼いが空を眺めている。おそらく、新約聖書ルカ伝2章8〜11の記述をもとにしているのだろう。羊飼いたちが夜通し羊の番をしていると、天使が現れ、救い主が誕生したと告げたというところである。写実的な幻想性がパリッシュの持ち味であろう。
次は「ミュッシャばりの絵を描いたライエンデッカー」である。ライエンデッカーはジョゼフとフランクの兄弟がいて二人ともイラストレーターになった。ジョセフ・クリスチャン・ライエンデッカー(Joseph Christian Leyendecker, 1874 – 1951)は1874年、弟のフランク・ザビエル・ライエンデッカー(Frank Xavier Leyendecker,1876−1924)は1876年にドイツのドイツのモンタバウルに生まれている。
1882年、家族とともに兄弟はアメリカのシカゴに移住した。兄のジョゼフは10代の頃、シカゴの印刷・彫刻会社J. Manz & Companyではたらいた。ジョゼフは弟とともに1895年10月から1897年6月までパリのアカデミー・ジュリアンで学んでいる。
兄弟とも、多くの雑誌の表紙画を描いた。ジョゼフは最も成功した商業アーティストとして知られるが、フランクは40代で悲劇的な死をとげている。
兄ジョゼフの『コリアーズ』の表紙は、ニューヨーク公立図書館のデジタルライブラリーで2点見ることができるが、どちらもミュシャ的とは言えない。
英語版ウィキペディアで紹介されているThe Century Magazineの1896年夏号の表紙がミュシャ的と言えるのでリンクを張っておこう。
さて、竹久はアメリカのイラストからどのような刺激ををうけたのだろう。荒木瑞子氏は前掲書で、次のように指摘している。
大正後期から昭和初にかけての竹久のグラフィックデザイナーとしての活躍を念頭に置いた発言であろう。
アメリカのイラストの基本は写実性にある。竹久はそこに関心を持ち、本文という対象を持つ「外から描いた絵」の模範を見ていた。
竹久のコマ絵は、自身のスタイルに合わせたくずしを行うため、写実性からは遠いように見えるが、ときに写実的な作品を描くことがあった。読者はこの文章の末尾でそうした事例にであうことになるだろう。
むずかしいことと思うが、竹久の現存する切り抜き帖がすべてウェブ公開され、切り抜かれた画像の典拠を調べる人が出てくれば、きっとさまざまなことがわかることだろう。
大きな足
明治43年2月20日の「読売新聞」日曜附掲載の「挿画談」という記事で生方敏郎は次のように書いたのだった。
「十一文半位の下駄」、「女子大学的で其田舎的自然主義的なる処」というのは、生方の竹下に対する揶揄である。
伝統的な日本画から出た梶田半古の挿画では、足は小さく描かれている。竹久の描く女性は足が大きい。
竹久は生方の批判に対して次のように反論している。
竹久は、現実を無視して、小さな足をかく伝習を批判している。
生方のいった「十一文半」は約27.6センチなので、誇張された表現であろう。
竹久のコマ絵から例をあげてみよう。
電車に乗ってつり革をつかんでいる娘である。さすがに「十一文半」はないだろうが、大きめに足は描かれている。
足の表現は写実的であるが、前にも言ったように「クリクリ」した目は、記号化、装飾化の結果で〈夢二式〉の代表的特徴である。竹久のコマ絵は、写実的であるとともに、記号化の傾向もあわせもっている。
竹久は、「机辺断章」という文章の一節に次のように記している。
荒木瑞子氏は『竹久夢二の異国趣味』(前出)の「その他の西洋画家」の章で、この引用部分にふれて、「夢二の絵の特長として語られる手足を大きく描くことの意味が、この発言を通して理解できる」と指摘している。
竹久は、女性の手足を小さく描こうとする浮世絵の伝統をよしとはしない。実在の女性の手足にこもる感情を読みとっていないからである。
バレ—・リュスのコスチューム・デザイナーであったレオン・バクスト(Léon Bakst,1866―1924)の絵に描かれた躍動した身体を見て、浮世絵の加工の対極を竹久は見出している。
バクストの絵葉書集Léon Bakst and the Art of the Ballets Russesの書影をあげておこう。表紙画は1911年初演の『ナルシス』に登場するバッカスの巫女である。
大きな手足に躍動する筋肉。躍るバッカスの巫女(バッカンテ)が描かれている。
バクストの絵は竹久の画風から遠いが、手足の大きさはリアルへの志向という点で共通するところがある。
生方の勘違い
さて、ようやく、終わりにたどりついた。
記事の末尾で、竹久は思わぬことを指摘する。
なんと、生方敏郎が大田三郎の作として賞賛している『女学世界』明治43年1月号に掲載された《銀座の春》という絵が、実は竹久の作品であったのである。
生方は次のように書いていた。
《銀座の春》を紹介しよう。
図版はオリジナルの雑誌のコピーから作成した。
生方は「木版」と書いているが、おそらく亜鉛凸版による印刷だろう。
亜鉛板にグリュー(膠)を塗り、その上に重クロム塩酸を薄い膜にしてのせ、その上でネガを感光させる。光線を受けた部分はグリューが固まり、光線を受けない部分は水に溶解する。グリューを熱すると腐食剤におかされなくなる。こうして凸版にして印刷する方法が亜鉛凸版である。
亜鉛凸版は細い線の表現に向いており、明治末から木版に代わって使われ始める。
木版から亜鉛凸版への移行は、竹久の書物にも見出すことができる。たとえば、長田幹雄編『竹久夢二著作目録』(長田幹雄編『竹久夢二』昭和50年9月1日、昭森社)を見ると、コマ絵を集成した『縮刷夢二画集』は、大正3年10月の洛陽堂版では木版であるが、大正13年2月の若月書店版では亜鉛凸版になっている。
《銀座の春》の中央右上部に服部時計店の塔が見えるが、銀座通りから一筋入った商店街を描いているのだろう。建物の細い線は亜鉛凸版の特性をあらわしている。
左下に「夢」のサインが入っているが、生方はなぜ間違ったのだろうか。おそらく、《銀座の春》には、いわゆる夢二式の筆がきの線が使われていないからである。
《銀座の春》は細密なペン画のタッチで、きわめて写実的な仕上がりである。こうした細密な描写は竹久のコマ絵には少ないが、ないことはない。
西恭子氏編の『竹久夢二コレクション③』(2001年7月15日、紫峰図書)に1909年5月の『中学世界』に掲載された《赤壁のおもかげ》という絵が紹介されている。お茶の水からニコライ堂を望む風景が描かれているが、《銀座の春》と同じくペン画のタッチによる細密画である。
《銀座の春》は写実的な表現だが、構成的だと思われる側面もある。シルクハットの男性、ショールの着物女性は上層階層に属していて、子連れの赤子を背負った女性は庶民階層に属している。それらの対比は意図的な選択によるものかもしれない。
あるいは、作為なくスケッチをもとにしていても、明治の階層社会が自ずと浮かび上がるということであったかもしれない。
終わりに
当初の予定よりは時間がかかったが、ようやく終わりにたどりついた。おもしろい文献をゆっくり読んで注釈を施してゆくという試みであるが、寄り道もしたので長くなってしまった。
課題とわかったことについて簡単にまとめておこう。
竹久のいう「内から描かれた絵」は、竹久自身の主張のみを見ると単体としての絵について言われた概念である。しかし、絵の主情性は言葉との組合せから生まれることが多い。
スケッチは写実的であるが、スケッチの画面を装飾的に再構成する傾向は、竹久の場合はどの程度あるのか、検討すべき要点である。
「アメリカ風のイラストレーシヨン」については、当初、見当がつかなかったが、荒木瑞子氏の指摘があり、おぼろげではあるがアメリカのイラストの写実性が理解できた。
「外から描かれた絵」、すなわち小説や文章に対応した挿絵にはアメリカのイラストのような写実性が必要であると、竹久は考えていたのである。
日本の事例でいうと、田山花袋の小説につけた橋本邦助の挿絵がそうした方向性に近いと感じられる。
パリッシュの作例を見てもわかるように、アメリカのイラストでは幻想的、虚構的場面のリアルな表現が実践されているが、日本ではそうした表現はいつごろから出現するのだろうか。
「内から描かれた絵」という概念は、同時代の表現についての思想から影響を受けているが、そのことについては稿を改めたい。(終わり)
*アメリカのイラストレーターの記述に際しては下記の英語版ウィキペディアを参照した。
ジェシー・ウィルコックス・スミス(Jessie Willcox Smith,1863−1935)
マックスフィールド・パリッシュ(Maxfield Parrish,1870ー1966年)
ジョセフ・クリスチャン・ライエンデッカー(Joseph Christian Leyendecker, 1874 – 1951)
フランク・ザビエル・ライエンデッカー(Frank Xavier Leyendecker,1876−1924)
*ご一読くださりありがとうございました。