《豊島の秋》:大正の東京郊外
メインの連載記事がとどこおっているので、最近手に入れた絵葉書を紹介することにしたい。
大正期の東京郊外の様子がうかがえる風景画の絵葉書である。当時は、カメラはあったが、まだ一般の人たちがスナップショットを気軽に撮るという時代ではなかった。そのため、絵画が風景の記憶をとどめた資料としての役割をはたすことがある。その1例である。
1 1枚の絵葉書
さる神社で古本まつりが開催されたときに、1枚の美術展覧会絵葉書を購入した。200円であった。
金井文彦の《豊島の秋》という絵で、大正8年の第1回帝国美術院美術展覧会(帝展)で入選したものだ。
購入したときは画家について何の知識もなかった。
なぜ購入したかというと、大正期の東京郊外の雰囲気が感じられたからである。
豊島とは当時の北豊島郡のこと。東京の北部にあり、いまの豊島区、北区、荒川区、板橋区、練馬区をふくむ地域であった。絵は、高台からの北豊島郡の眺望をとらえたものだろう。黄葉した樹木のそばに郊外風の住宅があり、その向こうには、草原が広がり、地平線近くには煙突のある工場がはるかに点在している。
大正期ではまだ写真は一般市民に普及しておらず、今のように画像検索すれば、風景のスナップショットがたくさん見られるという状況にはなかった。
写真は、どうしても名所旧跡を撮影したものに限られることが多く、写真絵葉書もまた、そうした定型をなぞることが多い。
だから、ごくふつうの風景はどうであったのかを知るには、絵画が参考になることが多いのである。
《豊島の秋》を見たときに、感じたことは、大正期の郊外をとらえている点でおもしろいということだった。草原と工場の対比も目を引きつけられたポイントである。
2 金井文彦について
金井文彦(1886−1962)という画家について調べてみた。祖父の金井之恭(1833−1907)は群馬出身の幕末の志士であり、明治政府の官僚を勤め、漢詩人、書家としても知られた。
父、啓一は千葉県佐倉中学校校長などをつとめた教育者であった。
『近世群馬の人々(1)』(昭和38年2月、みやま文庫)に田島群次郎の「金井之恭」という文章が収められていて、その末尾に「余録(系譜に代えて)」があり、金井文彦の紹介が出ている。
川端画学校は、川端玉章によって明治42年に創立された日本画家養成の学校であったが、玉章の没後、大正3年に洋画科が設置され、金井はそこに出講していた藤島に学んだものと思われる。
《豊島の秋》の評価の事例をひとつあげておこう。
磯村重雄「帝展洋画評」(1919年12月、『現代之美術』第2巻第7号、現代之美術社)という文章である。
磯村が「危険な絵」だと評した意味はよくわからない。家屋の表現には、藤島の影響が感じられる。ほんの少しセザンヌの影も落ちている。磯村にはそうしたある意味でラフな筆致が気に入らなかったのだろうか。
3 《豊島の秋》について
金井自身が、《豊島の秋》について語っている談話を含む「金井文彦氏の帝展入選 其所画の洋画「豊島の秋」」という、雑誌『上毛及上毛人』第35号(1919年10月、上毛郷土史研究会)に掲載された無署名の記事がある。「上毛」は上毛野の略で、いまの群馬県をいう。
引用部分に続いて、金井は本名でない「文彦」という名を使ったのは、先人にあやかるためで、祖父の幼名文八郎と、曾祖父の通称彦兵衛から一文字ずつとってつけたと述べている。
三十号は長辺が910センチあるので、けっこう大きな作品である。
4 描かれた場所は?
さて、気になるのは、描かれた風景が北豊島のどのあたりのもので、どちらの方向をとらえているかということである。
さきほど、ふれた雑誌『上毛及上毛人』第35号(前出)には、《豊島の秋》の図版が口絵として掲げられている。
硝子板(コロタイプ)で、左右にキャプションが付いている。
右には「帝国美術院第一回展覧会出品洋画/烏洲翁曾孫金井文彦(本名達三)氏筆」とある。「烏洲」は金井文彦の曾祖父で江戸後期に南画家として活躍した。
左には「(故金洞翁の別墅三岳荘ヨリ豊島一帯ヲ望ミタル図)」とある。「金洞」は金井之恭の号で、金井の祖父にあたることをすでに記した。「別墅」とは別荘のことである。
《豊島の秋》は祖父の別荘からの眺望を描いたことになる。
別荘三岳荘はどこにあったのだろう。
小室重弘『自然と社会 文範』(明治41年12月、博文館)という本に「道灌山」という一編が収められており、そこに三岳荘があったことが記されている。
小室は自由党系の政治家として活躍した人物で、金井之恭(金洞)とも交流があったようだ。
道灌山は西日暮里から田端にかけての丘陵である。江戸時代は虫の音を聴く名所とされた。太田道灌の出城があったところからの命名だという。
東京郊外の地図をあげてみよう。東京市編纂の『東京案内』下巻(明治40年4月)の「東京近郊之図」である。
北は、2時の方向である。 日暮里駅のあたりを道灌山だとしよう。
絵には川らしきものも描かれており、それが荒川だとすれば、道灌山からさらに郊外の方を眺めたもののようである。
さきほどの小室重弘の「道灌山」というエッセイには、眺望にふれた次のような一節がある。適宜、ルビをほどこした
「衽帯」というのは衽のことで、着物の左右のまえみごろに縫いつけられた細長い布をさす。おそらく道灌山の丘陵の形状を衽にたとえており、その下に川や村の風景が広がっているということを表現しているのであろう。
小室が金井金洞翁に寄せた漢詩の一節「「一川生樹頂。三嶽落杯中」は「一川樹頂に生ず。三嶽は杯中に落つ」でいいだろうか。
丘から眺めると、まるで樹のてっぺんから川が流れているように見え、三嶽荘の姿は杯の中に映じている、ということなのだろう。
小室が文章を書いた当時は、まだ《豊島の秋》が示しているような、煙突群はなかったのだと推定される。
5 伝統の流れ
《豊島の秋》は、道灌山にあった祖父の別荘から眺めた風景を描いた、個人的な動機による作品である。
しかし調べると、道灌山は名所のひとつで、江戸期から描かれることが多かったことがわかる。
歌川広重の《江戸名所 道灌山野遊び》(嘉永年間)という木版画は、道灌山の上でくつろぐ庶民の姿がとらえられている。
小林清親に教えを受けた井上安治の通称「東京真画名所図解」シリーズの《道灌山》(明治10年)では、双眼鏡で風景を眺める紳士が描かれている。
遠方に山が見えるが、どちらの方角なのかはわからない。
広重《道灌山 野遊び》、安治《道灌山》とも、草原はまるで海のように描かれているが、これが「桑拓」(桑畑)なのだろうか。
こうしてならべてみると、金井文彦《北豊島の秋》の風景が浮世絵の名所絵の伝統につながっていることがよくわかる。
伝統にない要素は、煙突を備えた工場である。
大正6年10月現在の東京の工場の総覧である『東京府工場一覧』(大正7年、東京府農商課)をみると、北豊島郡には多くの工場があったことが記されている。三河島、千住のあたりは特に多い。
*ご一読くださりありがとうございました。