夜の大丸呉服店:『ハガキ文学』の口絵写真
1 雑誌『ハガキ文学』
明治の古い雑誌を読んでいると、おもしろい記事や写真にであうことがある。
今回は、『ハガキ文学』第5巻第4号(1908年4月1日、日本葉書会)の口絵写真を紹介しよう。
雑誌『ハガキ文学』については、過去記事《雑誌『ハガキ文学』における活動 画文の人、太田三郎 (8)》から、引用しておこう。
ずっと調べている太田三郎という画家が、若い頃に『ハガキ文学』の編集にかかわっていたことと、私自身が短い文章表現に関心があったことから、この雑誌を集めている。
『ハガキ文学』には、復刻版はなく、マイクロフィッシュ(フィルムに雑誌のページを撮影して縮写したもの)がある。マイクロフィッシュからコピーをとると、画像はつぶれてしまい、印刷や版面の状態を調べるのには適さない。
雑誌の現物を所蔵している資料館はあり、複写にも応じてくれるが、やはり現物を入手して目で見て手で触れて確認しないとわからないことはたくさんある。
努力の甲斐あって総刊行冊数82冊のうち、約半分を集めることができた。
不思議なことに、創刊号を含めて初期のものが多く、明治40年代に入ってからのものは少ない。
今回、はじめて1908(明治41)年4月1日発行の第5巻第4号を手に入れた。
表紙はサインから太田三郎とわかる。1908年はそろそろ絵葉書ブームにかげりが見え始めた頃で、太田は編集部の外に出て、展覧会に出品する画家として入選を目指していた。しかし、読者からの応募画の選や、カット画、表紙画には協力していた。
今回は太田のことではなく、口絵写真がおもしろいのでそれを紹介したい。
2 夜の大丸呉服店
まず写真をご覧いただこう。
写真上部にあるタイトルは隠れているが、「改築後の大丸呉服店」。
右側のキャプションは「東京本店之夜景」。
1908(明治41)年にこんなモダンな光景があったということに驚く。
ライトアップは、博覧会の建築からの影響ではないだろうか。
夜に煌々とかがやく大丸呉服店のモダンな姿だけではなく、明治の典型的景観のひとつである碍子がたくさんついた電柱と電線にも注目してほしい。
また、雨に濡れた路面の電車線路がはっきり写っているのは、めずらしいかもしれない。
大丸呉服店東京本店は、旧日本橋区の通旅篭町にあった。建替ではなく改築で、1908年4月に新装開店した。
大丸呉服店は、十一代下村正太郎(正剛)社長のもと、1908(明治41)年に改革に乗り出し、東京本店の改築はそのシンボルでもあった。しかし、2年後の1910(明治43)年には東京、名古屋から撤退することになる。
『大丸二百五拾年史』(昭和42年10月、大丸二百五十年史編集委員会編、株式会社大丸)によると、改革の経費が膨張し、折からの大不況で、「覆い難い窮迫」におちいり、東京信託会社の岩崎一の改革案を受け入れることなったという(253頁)。
2年あまりで、東京本店はなくなったのである。事業の展開というものはなかなかむずかしいものだ。
3 新旧比較
小林清親が《大伝馬町大丸》という版画を残している。大伝馬町は通旅篭町の古い呼び方である。
国立国会図書館デジタルコレクションから引用しておこう。
清親の版画からは、江戸の空気がまだ感じられる。店構えは古いが、電柱と電線が近代を伝えている。
雑誌『時事評論』第3巻第5号(1908年5月、時事評論社)の「事業界』という欄に、改築して4月に新装開店した大丸呉服店について、「R N」という匿名名義の「大丸呉服店を評す」という記事が出ている。
大丸呉服店の新旧の対比がわかりやすく書かれているので、記事を引用してみよう。
照明も暗い平屋の和風建築空間で、客と店員が頭を寄せて商品を選ぶ江戸時代式から、商品は明るいところに陳列され、店員は半分以上は女性で、立礼して客を迎える西洋式に変化したのであった。
大丸呉服店は1908(明治41)年10月に創刊された『婦人くらぶ』という雑誌に出資している。女性啓蒙を目的として発行された雑誌で、窪田空穂が編集主任をつとめた。
1910(明治43)年12月号の口絵は太田三郎の《薄暮》という題の絵である。駅で傘を杖にしてしゃがんでいる、黒い着物で、赤い大きなリボンを付けた女性の後ろ姿を描いている。
*ご一読くださりありがとうございました。
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