雑誌『ハガキ文学』における活動 画文の人、太田三郎 (8)
太田三郎と絵葉書
さて、太田三郎と絵葉書の関係を考えるとき二つのアプローチが可能である。
まず一つ目は、絵葉書ブームに随伴する形で、博文館が日本葉書会を組織して刊行した雑誌『ハガキ文学』における記者としての活動である。
二つ目は、絵葉書の制作者としての活動である。
今回は、雑誌『ハガキ文学』と太田の関わりについて記すことにしたい。
『ハガキ文学』と太田三郎
『ハガキ文学』について
雑誌『ハガキ文学』は日本葉書会が発行元であるが、実質は当時の大手出版社博文館が運営しており、明治37年10月に創刊され、明治43年8月に終刊するまで82冊を発行した。
菊判2段組で50〜100頁程度、口絵の木版、石版、挿絵としてのスケッチ画(コマ絵)など豊富な図版を掲載した。
絵葉書ブームが雑誌発行の背景にあったのは間違いないが、「ハガキ文学」という誌名に現れているように、ハガキに書く短い文章の文学性に注目していた。
また、ハガキという実用的通信のアイテムに着目することにより、雑誌を社会的な交流の場に置くことを可能にした。
雑誌の価格は、創刊時6銭、3年目の明治39年で10銭と廉価でありながら、口絵、付録絵葉書の石版、木版による色刷印刷を試み、読者の色彩感覚を豊かにした。
金暻和氏は「「文学としての葉書」: 日露戦争期の『ハガキ文學』を事例にしたメディア論の試み」という論文で、『ハガキ文学』発行の意図について次のように指摘している。
日本葉書会発行の『スケッチ画集』第3版(明治41年5月5日)巻末の『ハガキ文学』の広告を紹介しておこう。
明治41年は、文学美術を併称して、雑誌発行の目標の一つとしていた第一次『明星』が100冊で終焉をむかえた年である。
その年に、4年目に入った『ハガキ文学』は、絵葉書という流行だけによらず、「文学美術」を併称する雑誌となっている。
太田は記者だったのか
「画文の人、太田三郎(6) ファンの声」では、『ハガキ文学』第4巻第3号(明治40年3月1日発行)の投稿欄「如是録」に深川住みの「唯我生」名義で、太田三郎の熱烈なファンである読者が寄稿した「僕の想像したハガキ文学記者」という文章を紹介した。
この読者の投書は、太田三郎を『ハガキ文学』の美術記者と明確に認識している。
『ハガキ文学』の総目次によれば、第2巻第5号(明治38年4月20日)の『臨時増刊絵葉書大観』では、特集として、画家たちの肉筆絵葉書が印刷掲載されたが、橋本雅邦や黒田清輝といった大家にまじって太田の寄稿が確認される。太田と『ハガキ文学』の関わりが確認できるが、記者として雇用されていた時期については今のところ明確に把握できていない。
金暻和氏は先に引用した論文で、編集部の人選について次のように指摘している。
典拠が明示されていないが、創刊号から太田三郎が「助手」の地位にあったのだろうか。
杉本邦子『明治の文芸雑誌』(平成11年2月10日、明治書院)の「ハガキ文学」の項では、「当初の編集主任は若尾瀾水がつとめた」と記されている。
太田南岳(1873〜1917)は南画家で、日本葉書会の一員で、初期の編集に関わった。しかし、明治38年頃には実務から離れていたと思われる。南岳は絵葉書の作者としても活躍しており、日本葉書会発行の《花鳥十二ヶ月》シリーズの装飾的な構図は、大田三郎に影響を与えている。
新年号の挨拶広告
手持ちの『ハガキ文学』広告を見ていると、太田三郎と『ハガキ文学』の関わりを示すものを見出すことができる。
雑誌の新年号には、編集部や関係者の新年挨拶が広告として掲載されることがあり、それが手がかりを提供してくれる。
まず、『ハガキ文学』第4巻第1号(明治40年1月1日)の日本葉書会名義の読者への新年挨拶の広告である。
母体の日本葉書会の「編輯局」には太田三郎の名が見える。
日本葉書会が図書出版と絵葉書発行を営業科目とし、精美堂がいろんな版の印刷と製本を担っていることが分かる。精美堂は博文館の系列で、図版印刷が業務の中心であった。
編輯局に名前が上がる4名(木暮理太郎、橋本春郊、太田三郎、佐藤生巣)は雑誌編集の業務を担っていたことが分かる。奥付の「編輯兼発行人」は一貫して大橋光吉である。
2年後の明治42年の新年号(第6巻第1号)にも、同趣の挨拶広告が出ているが、若干の変化が見られる。
第5巻12号(明治41年11月1日)より発行元は日本葉書会から精美堂にかわっている。
2年前には編輯局の内部に名が上がっていた太田三郎、佐藤生巣の名は精美堂の広告にはなく、下段の応募懸賞文の選者として『ハガキ文学』に協力している社外の人々の名にまじって、協賛的な位置の新年挨拶広告に出ている。橋元(以前は「橋本」と表記)春郊の名のみが、精美堂編輯局に残っている。橋元の名は、下段協賛広告にも上がっており、選者とともに、編集の実務にもあたっていたことが推定できる。
田山花袋は「小説」、沼波瓊音は「普通文」、児玉花外は「新体詩」、橋元春郊は「ハガキ文」、三木露風は「口語詩」、桑田春風は「新俗謡」、太田みづほのやは「和歌」、内藤鳴雪は「俳句」、窪田而笑子は「新川柳」の選者をつとめていた。
太田はこの号には口絵も寄稿しており、明治42年には、絵や応募画稿の選評の寄稿は継続していたが、編輯の実務からは一歩引いた形で協力していたのではないかと考えられる。
明治40年初めて文展が開催され、太田は明治43年の第4回展に出品した《ビーヤホールの女》で初入選する。洋画家としての自立が第一目標となるにつれて、『ハガキ文学』での活動もスケッチ画の寄稿や、応募画稿の選などに限定されていったと思われる。
先に引用した論文で金暻和氏は「日露戦争によ る好景気が不況へ反転した明治 41(1908)年以降,雑誌の売れゆきも悩ましくな ってきたという」と記しているが、絵葉書ブームが盛期を過ぎて編集部を縮小せざるを得ないという事情もあったのかもしれない。
『ハガキ文学』における活動の諸相
太田三郎が『ハガキ文学』の誌上で行った活動は次の4つの点にまとめることができるだろう。
表紙画と口絵
まず、表紙画や口絵の寄稿である。
口絵については、画文の響き合いという視点から第7回の「絵と文を響かせる 画文の人、太田三郎(7)」で触れた。
表紙画の例を一つあげてみよう。第3巻第12号(明治39年11月1日)の表紙は、女性像である。色を変えて数号、同じ表紙画が使われている。目次に画題は示されていないが、頭に戴いた月桂冠からミューズ(ムーサ)を描いたものと考えられる。
西洋美術の画題から暗示を得たものであろう。類似作を探してみると、1865年のカミーユ・コローの《 The Muse: History(ミューズ、歴史)》に行きあたる。
喜劇の女神タリアを描いたという説もあるが、歴史の女神クリオを描いたものとされている。
ジェイムズ・ホールの『西洋美術解読事典』(1988年5月10日、監修高階秀爾、河出書房新社)の「ムーサたち」の項では、歴史のムーサ、クレイオ(クリオ)は、月桂冠、巻物が特徴だと指摘されている。
月桂冠やゆったりした衣服に太田の表紙画との類似が認められる。ミューズの描き方の伝統があって、コローの絵にもそれは流れている。太田はその伝統の流れに属する絵を参照したに違いない。ただ、太田は先行作を完全にコピーすることはなく、デッサンや構図は自分で組み立てていると私は考えている。
小品的散文
二つ目は、小品的散文の寄稿である。太田は次の諸編を寄稿している。
『療脳日記(上)』(第3巻第14号、明治39年12月1日)は、国府津に出かけた時の日記の体裁をとった紀行文。末尾に「(未完)」とあるが続編が掲載されることはなかった。
『乗合馬車ー旅行日記の一節ー』(第4巻第3号、明治40年3月1日)は越中の旅で乗った乗合馬車で幼年期の印象的な体験を想起する話。
『花ちる宵』(第4巻第6号、定期増刊『静思熱語』)は旅先での見知らぬ女性との不思議な邂逅を描く。神秘的な運命を願う点で、ロマンティックな夢想が最も凝縮した作品。
『北国の夏ー『乗合馬車』ーのつゞき』は末尾に「(未完)」とある。
『山国の一週間』(第5巻第10号、明治41年10月1日)は未確認。
興味深いことに、詩的散文として瞬間の印象を捉えるものとして〈小品〉を規定した水野葉舟は『ハガキ文学』に何度か小品を寄稿している。
上記の太田三郎の散文は、「感じ」を描こうとしている点で、水野葉舟の小品と通いあうところがある。
「ハガキ文学」という呼称にふさわしいのは、短文の詩的小品である。
画家である太田三郎が「感じ」を描くものとして詩的小品を理解していたことの意味については回を改めて書くこととたい。
スケッチ画
三つ目は、スケッチ画(コマ絵)の寄稿である。
活版印刷で活字を組むと空白が生まれ、その空白を埋めるための、本文と関係がないカット画のことをコマ絵と呼んだ。『ハガキ文学』では、コマ絵のことを「スケッチ画」と呼んでいる。スケッチ画は、頭の中で空想をこしらえたものではなく、世相や風景、人物を写生=スケッチしたものという、現実に即した絵のことを指している。
太田とともに編集部に加わっていた佐藤生巣や、そのほか橋本邦助、斎藤五百枝、和田三造、岡野栄らが多くのスケッチ画を寄稿している。これらは、後に『スケッチ画集』(明治40年5月5日、日本葉書会)、『スケッチ画集第二輯』(明治43年5月23日、日本葉書会)としてまとめられ上梓されることになる。これらのスケッチ画を見ると、モノクロの木版の線の表現の変化についてたどることができる。
その分析については機会を改めることとして、作例として、第4巻8号(明治40年7月1日)から、《大海》をあげておこう。
傘を持つ少女が浜辺に立って海を眺めている。大人用の草履を履いているところが愛らしい。海辺になんとなくさまよい出てきたということを見るものに想像させるからである。
さまざまな試行の果てに線をシンプルにして表現する方向が明確になった作品である。詳しくは、スケッチ画集の分析の際に述べることとしたい。
応募画の選定と講評
四つ目は応募画稿の選定と講評の掲載である。『ハガキ文学』では、スケッチ画や絵葉書の原画の読者からの応募を受け付けていた。太田はそうした応募画の選定に当たっていた。
第4巻第8号(明治40年7月1日)に、「太田三郎」名義で「募集画選評」が掲載されている。交替している号もあるが、「太田三郎」「さむらう」「三郎」名義で応募画についての評(題名は「応募画評」など変化する)が継続して掲載されている。
第7巻第2号(明治43年2月1日)の「応募画選評」が最後であるが、その後、第7巻第9号(明治43年8月1日)の終刊号まで応募画の選は続けている。
『ハガキ文学』における活動を概観すると、もし太田三郎が洋画家として自立する道を断念していれば、竹久夢二に並ぶ印刷上の絵画の描き手、文章と絵を組み合わせた本の著者として名をなしたかもしれないと思う。しかし、そうはならなかった。
かといって、太田はただ油彩画のみを描く画家にとどまることなかった。明治末から大正初期にかけて、特色あるスケッチ画集や絵物語を刊行した。印刷技法の特性を踏まえて独自の画文共鳴の表現領域を開拓した。そのことは埋もれてしまっている。忘れられた太田の試みを読者に伝えたいというのが、本連載の願いなのである。
書き進めるうちに浮かび上がってきたことは、スケッチ画(コマ絵)、絵葉書から創作版画まで多様な版(print)の表現技法に習熟していた太田の画像表現を追究すれば、当時の印刷技法と画像表現の相互関係の全容を明らかにできるのではないかという予感である。(この項終わり)
付記
ヘッダー画像は、『ハガキ文学』定期増刊第3巻第4号(明治39年3月15日)の表紙の一部。太田三郎《満潮》。
カミーユ・コローの《 The Muse: History(ミューズ、歴史)》の画像は、自由使用できるものである。
金暻和氏の「「文学としての葉書」: 日露戦争期の『ハガキ文學』を事例にしたメディア論の試み」(『マス・コミュニケーション研究』78巻、2011年)は下記にリンクを貼っておく。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mscom/78/0/78_KJ00007018368/_pdf/-char/ja『ハガキ文学』の総目次は、『【オンデマンド版】精選近代文芸雑誌集総目次 第15巻』(2009年10月1日、早稲田大学編、雄松堂アーカイブス株式会社)によった。
〔修正付記、2022年5月16日〕
橋元春郊の名は、明治42年1月の広告でも編輯局に残されているので、その旨修正した。
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