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太田三郎と『少年世界』
ヤフーオークションで博文館の『少年世界』が出品されていた。太田三郎の絵があるものを数冊落札することができた。
表紙画や口絵を紹介したい。
太田三郎は、博文館系列の日本葉書会『ハガキ文学』で活躍したが、そのかかわりから、博文館の雑誌の表紙画や口絵、挿絵を描く機会が多かった。
女学生向けの『女学世界』での活動は知っていたが、少年向け雑誌での活躍についてはその絵を見る機会があまりなかった。
太田三郎そのものが、埋もれている存在なので、数点でも絵を紹介することに意義があるだろう。
1 『少年世界』について
博文館の少年向け雑誌『少年世界』はどんな雑誌であったか。Web版『日本近代文学大事典』(ジャパンナレッジパーソナル版)から、菅忠通の解説の一部を引用する。
明治二八・一~昭和九・一。博文館発行。明治中期の新興出版社である博文館は日清戦争前後のころに大躍進をとげたが、とくに明治二八年一月を期して、それまでの同社発行の雑誌二十余を「太陽」「文芸俱楽部」ならびに「少年世界」に統合し、競争誌を圧倒して博文館時代ともいうべき一時期を画することになった。「少年世界」には「幼年雑誌」「日本之少年」「学生筆戦場」「少年文学」「幼年玉手箱」などの雑誌や叢書類が合併され、多面的な誌面構成(論説、史伝、科学、小説、遊戯、文学、寄書、雑録、征清画談、学校案内、遊覧案内、新刊案内、時事など)となった。この新生「少年世界」の主筆に招かれたのが巌谷小波で、すでに硯友社系の文士として知られていたが、とくに少年文学、お伽噺作家として有力な存在で、その資質と識見が高く評価されたわけであった。小波は「少年世界」主筆として、すぐれた編集能力を示すとともに、近代日本における児童文学の第一人者と呼ばれるにふさわしいほどの作家活動をおこなった。(以下略)
(小学館、ジャパンナレッジパーソナル)*2024年6月10日参照。
『少年世界』は少年向けの総合情報雑誌という性格をもち、明治末から大正にかけて隆盛期をむかえるが、太田が表紙画や口絵を描いたのはその時期に重なっている。
毎号巻頭に、巖谷小波が物語を書いており、大きな挿絵を武内桂舟や杉浦非水が描いている。コマ絵もたくさん挿入されている。
2 表紙画2点
まず、『少年世界』第17巻第12号(明治44年9月号)の表紙画《海のはなし山のはなし》である。
夏服の真っ黒に日焼けした生徒たちが、夏休み明けの学校で再会し、海へ行った話や山へ行った話をしている。
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石版印刷である。
サインが、よくしられた鳥マークではなく、子どもの顔のようだ。
もう1点は大正期に入ってからのもの。
『少年世界』第20巻第4号(大正3年3月号)の表紙で、《野辺の三月》という題である。目次では「彩色石版」とされている。
![](https://assets.st-note.com/img/1718012776147-uOisrC2eq0.jpg?width=1200)
サインはない。
左部分に虫食いがあり、保存がよくない。
草原の少年、あるいは青年というのは定番の画題で、竹久夢二のコマ絵にも見られる。
3月であれば、まだ少し寒いかもしれない。
軍国少年のいさましさには、まだほど遠く、明治時代の煩悶青年の弟という感じだ。
3 口絵2点
まず、『少年世界』第15巻第9号(明治42年7月号)の《帰省の少年》というもの。目次では「水彩画」とあるが、印刷は多色石版である。
背景やホームは淡く彩色され、人物が目立つように配慮されている。
サインはおなじみの鳥マークである。
![](https://assets.st-note.com/img/1718016972572-4dSwcOYtDo.jpg?width=1200)
「帰省」は、明治の中学生にとっては、重要な行事であった。作文や小品文の課題としても「帰省」はよく使われた。
夏の白の制服で大きな荷物を持って故郷の最寄り駅の改札をくぐる。
当時の駅の改札は、このように木柵だけの簡素なものであった。
右手前の荷物は「チッキ」とよばれたものである。「チッキにする」というように使われ、旅行者本人とは別に荷物の輸送を依頼することができた。
英語の check がもとで、依頼した荷物を受け取るための半券、ないしは荷物そのものを「チッキ」といったのである。
中学校へ進学するものは当時、選ばれた少数者であった。中学校に進学するためにふるさとを離れる少年が多くいた。夏と暮れの帰省は、懐かしい故郷への帰還を意味している。
つぎは、『少年世界』第16巻第11号(明治43年8月号)の口絵《にわか雨》である。木版の2回刷りと思われる。
目次では「中絵」と呼ばれている。
サインは「サムロウ」である。日本画を描くときの太田の雅号は「沙夢楼」で、「三郎」を「さむろう」と読ませることもあったようだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1718017860934-wXRRcCBCQQ.jpg?width=1200)
幼い子どもらが釣りに出かけたその帰りに、夕立にあう。激しい雨でせっかく釣った魚も魚籠から飛び出してしまう。
引用された歌は、桂園派の祖、香川景樹のものである。
袂まで通りて濡れぬ夕立の雨には笠もかひなかりけり
この歌は、初学者向けの歌の本の、夏の夕立の項に採録されていて、そうした書物から引用されたのではないだろうか。
絵では、笠は西洋傘に変わっているが、子どもらが急な夕立に困惑していることは伝わってくる。
子どもをかわいらしく描く大正中期以降の〈童画〉への流れをほんの少しだが感じさせるところもある。
木版は2色でシンプルだが青の雨のラインを上にもってきている。
博文館なら、木版彫刻師が常駐していて、多くの雑誌の口絵、挿絵の彫りを担当していたはずだ。
この程度の線の量なら、短時間で仕上げられただろう。
*ご一読くださりありがとうございました。