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『柳屋』第25号表紙画、普門暁の《未来派模様》:《包紙画の衝撃:竹久夢二『山へよする』研究②》ヘの補足


1 三好米吉と『柳屋』

普門暁が表紙画《未来派模様》を描いている『柳屋』第25号を入手することができた。

先日、「日本の古本屋」サイトで、「柳屋 25号」と検索したら、4冊セットの中にこの号がまじっていて、とても安く入手することができた。経年劣化があるということであったが、届いたものを見ると、まずまずの状態である。発行後、100年以上たっているので、若干の色せはいたしかたないだろう。

なぜ、普門暁ふもんぎょうが表紙画を描いたこの第25号がほしかったのかというと、西野嘉章氏が、竹久夢二の『山へよする』の包紙画とこの表紙画を並べて紹介していて、わたしも、ぜひオリジナルの画像で比較してみたいと思っていたからである。

西野嘉章氏は、『前衛誌 日本編』図版巻(2019年9月、東京大学出版会)の46頁「未来派/表現派」で、『山へよする』包紙画と、同じく竹久夢二の『恋愛秘語』(1924年9月、文興院)の表紙画と、大阪の柳屋画廊が発行していた雑誌『柳屋』第25号(1924年5月、大阪柳屋画廊)の普門暁の表紙画《未来派模様》の3点を図版として提示している。

『山へよする』の刊行は1919年2月であり、他の2点よりはずっと早く制作されている。
下記記事では、包紙画の斬新さは、未来派の影響というよりは、竹久が実際に接していた恩地孝四郎や田中恭吉の表現からの影響が大きいことを指摘している。

『柳屋』は、三好米吉が経営していた大阪の柳屋書店(柳屋画廊)から発行されていたカタログである。

三好米吉みよしよねきち(1881−1943)は、大阪で宮武外骨の滑稽新聞社にかかわり、一時『滑稽新聞』の編集に従事した。

三好は、1910年に大阪市平野町に柳屋書店を開業し、書籍だけではなく、錦絵、玩具、文人や画家の揮毫した短冊なども扱うようになった。大正2年11月から販売品の目録として『美術と文藝』を刊行し、大正10年には店を八幡筋畳屋町に移転した。大正11年2月からは目録の誌名を『柳屋』と改称した。

雑誌『書物展望 会報第三冊』第158号(昭和年9月20日、書物展望社)に掲載された、「おも四郎」名義の「文献随筆 雑誌散策」という文章に柳屋が取り上げられている。

大阪の短冊店柳屋の「美術と文藝」(後「やなぎや」と改題)の創刊もこの時分だつたらう。 本来の目録である文壇人の筆蹟さまざまのの色紙や短冊の文句や値段は、今になつて見るといろいろな点で興味を唆られるが、各地の電車会社の花見時のポスターで花信を示したり、店のある八幡筋界隈の考現学を試みたりしてゐるのも、主人三好米吉老の風貌が窺はれて店を知る者には八幡筋をブラついてゐるやうな、またブラつきたいやうな気を起させる。

おも四郎「文献随筆 雑誌散策」(『書物展望 会報第三冊』第158号、昭和年9月20日、書物展望社)
16ページ


『美術と文藝』『柳屋』は、販売品の目録でありながら、趣味人としての三好米吉の個性がよく表れている誌面であったことがうかがえる。
「蔵書票」や「小唄」といった特集を組み、それぞれにあった表紙デザインが採用されていた。

第25号の特集のテーマは「続柳屋」であったが、なぜ普門暁の斬新な絵が採用されたかというと、普門暁がデザインした手拭いを販売することになっていたからである。
そのことについてはあとで触れるとして、まず表紙画を紹介しよう。

『柳屋』第25号 表紙 普門暁《未来派模様》 大正13年5月1日 柳屋画廊発行

ステープラーで2箇所を綴じている。
40ページ。幅15.2㎝、高さ21.8㎝。
表紙裏上欄に、「柳屋/(第二十五号)/(続柳屋の巻)/表紙絵/未来派模様/普門暁氏/柳屋目録」とある。また、「本誌印刷数/壱萬部」とある。無料配布の販売品目録であった。

『柳屋』第25号 表紙裏 大正13年5月1日 柳屋画廊発行 


印刷は、多色石版だと思われる。

『柳屋』第25号 裏表紙 普門暁《未来派模様》 大正13年5月1日 柳屋画廊発行

表紙画のほうは、抽象的な形象と色彩の組み合わせた前衛的な表現のように見える。
しかし、裏表紙のほうは、具象的な表現が残されている。
右に、街灯と柳の木が描かれていることが明確に理解できる。
街灯のガラスにはヤモリがはりついていて、リアルな表現となっている。

特集が「続柳屋」となっていて、柳屋自体が特集のテーマになっているので、それに合わせた表現ということもあるだろう。

表紙画と裏表紙画は別々の絵であろう。

2 「未来派表現派 芸術手拭てぬぐい

40ページの中央の欄には、「普門暁氏草按」の「未来派表現派芸術手拭」の広告が掲載されている。

『柳屋』第25号 大正13年5月1日 柳屋画廊発行 40ページ

手拭いは「(毎月一種今年中に完成)予定」であり、「一筋 五拾銭/全十筋 五円」であった。
左には次のように記されている。

 前号に発表致しました未来派手拭 色の感覚は)余りに色や線がフクザツで大阪一の型屋も染屋もようこしらへません、それ故近く「ヴ井ナス」「夜の街」などを作ります。

『柳屋』第25号 大正13年5月1日 柳屋画廊発行 40ページ

この記述によれば、第24号に《色の感覚》という、おそらく普門暁デザインの手拭いの図案が掲載されたようだ。これは未見であるが、あまりに「色や線がフクザツ」で、型紙を使って模様を描く「型屋」も、実際に布を染める「染屋」も、手拭いを作ることができなかったという。
新たに用意された《ヴ井ナス》や《夜の街》は、ある程度の具象性をもたされたものだったのだろうか。

広告の下部に「(手拭の見本)」として《人体デツサン》という図案が示されている。印刷では細部がわからないが、拡大図を示してみよう。

『柳屋』第25号 大正13年5月1日 柳屋画廊発行 40ページ 拡大図

女性の人体が、複数の輪郭線で描かれているようだ。これなら、手拭いにすることができるだろう。
第25号の表紙画の《未来派模様》が手拭いの図案に含まれていたかどうかはわからない。

三好米吉のおもしろいところは、前衛的な表現を手拭いにして販売しようとするところである。稀少性があり、尖端的な表現を商業化することに、商機があると考えているところに、三好の新しさがある。

本場の未来派がネクタイをデザインしていたことを三好は知っていただろうか。

3 『山へよする』包紙画と《未来派模様》

さて、最初の動機であった、『山へよする』包紙画と《未来派模様》の比較図版を示しておこう。

上:竹久夢二『山へよする』包紙画 (大正10年9月20日第9版、新潮社、初版は大正8年2月10日)
下:『柳屋』第25号 表紙、裏表紙 普門暁《未来派模様》(大正13年5月1日、柳屋画廊) 

『山へよする』包紙画では曲線が基調であるが、《未来派模様》では曲線とともに直線も使用されている。

女体や、柳、街灯など具象的要素が残されているところは共通している。

竹久が未来派について認識を深めるのは、大正9年以降である。

『山へよする』の包紙画の斬新さは、田中恭吉や恩地孝四郎の表現から影響を受けつつ、竹久夢二の独自のデザイン思想によって形成されたものだと、筆者は考えている。




*ご一読くださりありがとうございました。



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