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太田三郎縮訳『女の一生』:雑誌『婦女界』第27巻第4号附録

 太田三郎関連の資料を入手したので紹介しよう。

 以前、同じ雑誌『婦女界』の懸賞当選の記念品とされていた、太田三郎『欧洲婦人風俗』(大正13年6月15日 婦女界社)という小冊子を紹介したことがある。
 

 その際、『婦女界』には別冊付録がつく場合があったということを知ったが、今回その実例を入手したことになる。

 『婦女界』は商業的な女性雑誌で1910年3月に同文館から創刊された。1913年1月からは都河つかわ龍が雑誌を譲り受けて、婦女界社発行として継続した。
 太田は、1920年代にわりあい密接なかかわりがあった。

 さて、今回入手したのは、『女の一生 太田三郎縮訳』というもので、『婦女界』第27巻第4号(大正12年4月1日、婦女界社)の附録である。

『女の一生 太田三郎縮訳』 『婦女界』第27巻第4号(大正12年4月1日、婦女界社)附録表紙

 モーパッサンの長編小説『女の一生』の翻訳ダイジェスト版である。「縮訳」という語は『日本国語大辞典第2版』に立項されていない。

 太田三郎は、渡欧のためにフランス語を勉強していたが、かなりの力があったことがわかる。

『女の一生 太田三郎縮訳』 『婦女界』第27巻第4号(大正12年4月1日、婦女界社)附録 裏

 「編輯兼発行兼印刷人」として都河龍の名が印刷されている。

 写真図版から小冊子と思われる方が多いだろうが、実は全紙の表16ページ、裏16ページを印刷して折ったものである。

 ひろげるとけっこうな大きさで、かつ、折り目が弱っているので、全体を撮影することは断念した。
 じっさい読むときは、カットしてとじなおすのだろう。

 冒頭に太田の「始めに」という文章が置かれている。全文を引用しておこう。

       始めに
 結婚の前後。本統にしみじみ(引用者注ー「じみ」は「ぐ」の字形の繰り返し符号)とした心持で物が思はれるのは、また、思はればならぬのはその頃だ。
 さうした頃に在る人々の心に向つての、よい贈物であらうとするこの婦女界特別号が、更に選んでモウパツサンの名作——恋愛だとか結婚だとか、また夫婦親子だとか云つたたぐひの間にかもされるそれぞれ(引用者注ー「ぞれ」は「ぐ」の字形の繰り返し符号)の経緯いきさつが、善かれ悪しかれ如何どうすることも出来ない「ヴイ」の上に或る雰囲気を形造つて、してやがて、所詮は皆すべて過ぎて行つてしまふその厳粛な姿を、まざまざ(引用者注ー「まざ」は「く」の字形の繰り返し符号)と浮き上らせた名作の梗概かうがいを附録としようとするのは、すこぶる意義のあることであらればならない。
 しかし、しよくせられて任に当つた私が、果してどれだけその意義を意義あらしめたか、それは頗る疑はしい。加之しかのみならずあたふだけ忠実に著者の意のあるところを伝へようとは努めながら、その外形に於て、ほしいまゝに取捨を試みたり、全体を自分の組立コンポジシヨンの中へ移したりしたことによつて、原著を冒涜ぼうとくしたところは勿論もちろんはなはだ多からう。ひどく恥しいことに思ふ。けれど一面から云つて、それはうした類ひのあらかじめ限られた頁数の中に於ての物語としては、また止むを得ぬことでもあつた。と云つたやうな逃げ言葉によつて、せめては、自らを責めるおもひの幾分いくぶんを自ら鈍らせたりもせようか。兎に角まあ、これでし、原著に向つての興味を多少でも読者の心にくやうなことでも出来たなら、その辺で私の責めは果されたことにして置いてもらひたい。
 なほ、題名は、もとは「或る一生」であるけれど、既に「女の一生」として広く知られて居るところから、しばらくそれをかぶらさせることにした。

 モーパッサンの『女の一生』は1883年刊。フランス自然主義文学の代表作。原題は、Une Vieである。

 ジャンヌは、ノルマンディーの地方貴族ル・ペルチュイ・デ・ボー男爵夫妻の娘で、修道院の女学校で学んだ後、実家に戻る。ジャンヌは近隣の貴族ジュリアンに見初められて結婚するが、さまざまな苦難が彼女を見舞うことになる。

 性的な描写もあるが、太田の訳では「…………」で伏せ字となっている。

 挿絵は表紙画の他に一点。印刷は表紙画ともに、写真網版である。サインはないが太田の作であろう。

 太田三郎がどのようにフランス語を学んでいたかはわからないが、エッセイ集
『女』(昭和32年12月1日、黎明書房)の巻末の「著者略歴」に手がかりをふくむ記述がある。この「著者略歴」は太田の自筆である可能性があるので、全文を紹介しておこう。

著者略歴
明治十七年十二月二十四日、名古屋市外西枇杷島町に、青物問屋の老舗「問孫」の子として生る。鹿鳴館夫人たちのシルエットが際立ちはじめた年である。十九才にして上京、日本画を寺崎広業に、洋画を黒田清輝に、仏蘭西語をジ・コツーに学ぶ。第一次世界大戦後、仏蘭西に留学す。滞仏中、独、伊、蘭、西、白、瑞、英、諸国遍歴。帰朝後、文展審査員就任。第二次世界大戦中、インドネシア地方に印度文化の遺跡を踏査す。戦後、地方文化の自主性樹立を念願して、中央美術界との関係をすべて辞し、名古屋へ移住す。昭和二十四年、愛知県より文化功労者として表彰せられ、同二十六年、中日文化賞を受く。諸種油絵作品の外、美術、文学、民俗学等に関する著書二十数種あり。現愛知県美術館長。南山大学教授。

太田三郎『女』(昭和32年12月1日、黎明書房)

 西枇杷島町は、現在、清須市であり、清須市はるひ美術館で、2024年11月から太田三郎の画業、著作などの回顧展が開催されることについては、すでに伝えた。

 太田の生家の青物問屋の屋号は「問孫」であったことがわかる。読みは「といまご」であろうか。 

 さて、「著者略歴」にはフランス語は、「ジ・コツー」という人物に学んだとある。
 森鷗外が小倉在勤時代に、フランス人宣教師ベルトランから、フランス語を学んでいることをふと連想したが、ジ・コツーが宣教師であるという確証はまったくない。

 名古屋移住は、強い決意のもとになされたことが伝わる記述だが、昭和24年の愛知県文化功労者、昭和26年の中日文化賞受賞の際の記事を調べると、何かわかるかもしれない。


*ご一読くださりありがとうございました。

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