筆が乗る割にスランプ

 私の近況を書き記しておく。
 前の投稿からもう随分と経ったのでそろそろ筆を執らないといけないな、などと考えて書き始めたということを最初にお断りしておく。
 書くために書く、という状況に陥っている。少し前まで、何か書きたいものがある程度明確にあり、それを具現化するべく物していた。それが、現在は全く逆になり、書くことが思い当たらないのに、焦って書き出すというありさまだ。
 このnoteアカウントを開設して最初に、私は「命は思ったより短いから、筆を執る」というようなことを宣言した。その宣言通り、それから半年弱の間それなりにたくさんの文章を書いてきた。このnoteにはあまりたくさんの記事がないが、それ以外のところでも色々と書いている。他の物書きの方にとっては大した量ではないかもしれないが、半年の間に50万字くらいの文字量を重ねた。
 これは幸福なことでもある。脳にことばの泉があり、そこから湧き出す言葉がたくさんあるということは、物書きを目指す(と、言うのかはわからない。私はすでに物書きであると名乗りたいが)者にとって幸福なことだ。
 だが最近、どうもその言葉が空疎なものになりつつあることに気がついた。一昨日だったか、一つの短編を書き終えた時である。ふと、私の脳裏に「お前の書くものはずいぶん陳腐になってきた」という自己批判が浮かんだ。そうなのだ。
 冒頭に記した通り、「書くために書く」の状況に至った。前もって内容があり、それを具現化するのではなく、なまじ脳内のボキャブラリーが豊富になってきたために、その場しのぎで「それなりに」、「物語らしきもの」を書けるようになってしまった。
 昨日書き終えた短編はいまひとつの出来なので、個人的に持っている文章置き場にアップしないことにした。しばらく寝かせて、少し心身が充実したら加筆修正したいと思う。
 事実は小説よりも奇なりという使い古された言葉がある。あの通りだと思うことが度々あり、今回のスランプに何が処方箋を書くとしたら、「現実を生きよ」ということになると思い至る。
 ここ二週間ほど体調を崩し、引きこもりがちだった。寒くなって来たから余計にである。しかし己を叱咤し、書を捨て街に出よう。
 物語に出てくるのは「ひと」だ。ひとを魅力的に書くために、そのひとの人生に必然性があるように書くためには、私自身が何よりも、自分の人生を充実させることだ。
 体調不良の最中、私の至らなさからとある場所で叱責を受け、食事もできないほどに落ち込んでいた。「あ、鬱になったかな」と思っていた。でも今こんなふうに考えられるから、いまの私は「うつ病」という状態ではない。むしろまだ、「躁」のフェーズにあるのかもしれない。
 私は一応ずっと精神科の患者で、「循環性気分障害」と診断されている。いわゆる双極性障害の亜型である。自己をモニタリングし、躁と鬱のあいだでバランスをとりながら、自分自身をグリップしてゆきたいと思う。

 今日の文章は、自戒のために書いた。やや短いが、ここで筆を措く。

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