現代は文明衰退の時なのだろう
以前も書いたことがあるが、私はとあるアプリゲームをやっている。「ピュアニスタ」という、着せ替えアートを作って楽しむゲーム。どっちかというと確実に女性向けだ。
そこでびっくりするような若年層における「文化の退廃」を見ることができる……というと、若年層プレイヤーに失礼かもしれないのだが、間違いなくZ世代/α世代(の無視できない割合に達する一部)に何かまずいことが起こっていることの顕れだと思っている。
着せ替えアプリにもガチャがある。ガチャを回すと、着せ替え用のアイテムを入手できる。服、ヘアアクセ、目、ヘアスタイル、そしてデコレーション用の「撮影アイテム」など。いろんなガチャがリリースされており、現在であれば、有料ガチャは復刻を含めて九種類ある(プレミアムオープンは無視して通常ガチャのみ計上)。そして、無課金のプレイヤーにも有料限定のガチャを回すチャンスは月に三度ある。ログインボーナスを最後まで行く、シーズンチャレンジ(クエストクリアでポイントを集める)を最後まで達成、交換所で交換という手法で三枚「Pスター(有料スター)ガチャチケット」を入手できるのだ。
本日のような祝い事(クリスマス)があるときなどは、稀だが臨時で有料ガチャチケットを配布する時もあり、無課金プレイヤーも今月は四回無料で有料限定のガチャを回すことができる。
これは、ゲームシステムの話だ。
問題はここからである。さきほど、有料ガチャには9種類あると言った。ゲーム内掲示板(トークルーム)には、「どのガチャを引いたらいいでしょうか?」という相談が頻出する。ガチャチケを入手できる月末になると毎月お目にかかる定番質問だ。
私は思う。「君たち、もしや、自分が何を好きかも分かっていないのではないか?」と。
できるだけ人気品が入っているガチャを回したいというのならまだ分かるけれども、無課金が回せる貧弱な回数で有料品がダブる確率は低い。だから、ダブらせて交換弾を作りたいというならあまりに効率の悪い話。レートが高いガチャを探しているなど、損得で「どれがいいか」決めかねているというならまだ救いようがある。それはそれで殺伐としたお話で、着せ替えを楽しむより、自分がいかにいいアイテムを所持しているかを優先しているということではあるがここでは不問とする。
何より、本当にどれがいいか分かっていないプレイヤーが少なからずいそうなことが問題だと思う。
これを見る時、若年層における文化の退廃ーー私にはそういう言葉が脳裏を過ぎる。
2010年代以降、スマートフォンによって誰でも簡単に大量の情報にアクセスできるようになった。Z世代やα世代は、物心ついた頃からそのような文明の利器に接している。
それ以前も、たまごっちやポケモン、モーニング娘。などが一世を風靡したことがある。テレビがその情報を供給して、「へーこれがいいのか」と大衆が消費行動をする。それは昔からある、メディアによる市場操作の類型だ。よく接するものをいいものだと思い込む、「単純接触効果」が人間だけではなく、モノ、キャラクター、コンテンツにも適用可能だろう。
しかし2010年代以降は、SNSで消費者の「囲い込み」がいっそう苛烈になったと私は思っている。だいたいの年齢がバレるが、2000年代に私はまだ子どもであった。物心ついた頃から大人になるにつれてどうだったか振り返って分析している。2010年代以降はAKB系グループ、進撃の巨人、鬼滅の刃などが一世を風靡した。もちろん、それぞれに面白い、素晴らしいところのあるコンテンツであることは言うまでもない。近年は推しの子や、送葬のフリーレーンなどが人気なのだろうか(よく知らないので適当ぶっこいているかもしれない)。
私が驚いたのは、家庭教師をしていたときに、私の世代ならば決して「アニメ」にハマらなかったような層のスクールカーストが高い方の小学高学年の女の子が「鬼滅の刃」にハマっていたことだ。
今なら、一昔前だとゲームに関心を示すようには思われないオシャレに関心のあるタイプの女の子が「ポケポケ」に夢中だ。
「みんなやっているからやる」「みんなから外れるわけにはいかない」という強迫観念が、スマホ、SNSの普及によって加速したのではないかと思っている。
どのガチャを回すのがいいか、と訊くのも、その一端を垣間見る出来事なのではないかと思う。自分の好きなものを回したらいい。あまり人気のないガチャでも、自分がそのガチャを好きだと思ったら一直線、みんながあまり引いていないガチャを引き、そのアイテムを使って着せ替えをしたらいい。
私などはそう思うのだが、若年層プレイヤーはどうもそのようには思わないらしい。人気になるために?みんなと同じような「量産型」の病みかわい子ちゃんを作るために?とにかく、「みんな」の目が気になるのではないか。
文化の退廃。そんな大仰な言葉で始めたけれども、要するに、何が言いたいかというと。スマホの普及により、「みんなの意見」が身近になった。そうすると、「みんなから外れるわけにはいかない」という同調圧力が加速する。市場も、そのような若年層の動きを機敏に察知して、「いまはこれが流行っています」というプロモーションを打つ。一つのコンテンツに何も考えずに群がるようになる。
大衆の煽動は、今も昔も世界の上層部の者たちにとってはいとも容易い。
文化は、さまざまなものが、それぞれのニッチにおいて花開くものだ。社会のアングラなところで咲く徒花にも一定の価値がある。否、むしろ社会から外れたアウトサイダーの嘆きが文化を生み出す最大の原動力ですらある。
しかし2010年代以降の文化は、現代文化は、「みんなと一緒」に収斂して画一化されている。確かにアウトサイダーがコソコソと自分らしさを表現しているけど、そのニッチはだんだん狭くなっている。反応がないからやめてしまう表現者もいるだろう。
みんなと同じではない自分を表現し、それに何らかの反応が期待できる時代ではなくなってきている。文化は退滅する。
私は私なりに、貧弱な筆だが、この風潮に精一杯抗おうとは思う。