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#月刊dagama
私と光栄ゲームパラダイス①
あれは1993年の春だったか、夏だったか。
大分の祖父母の家に遊びに行く途上、駅の書店で移動中のなぐさみを物色していると、平積みにされた雑誌大の1冊に目が止まった。
タイトルは『光栄ゲームパラダイス(仮)Vol.1』。
表紙では、おそらく織田信長であろう男が、モップを手にしながら、こちらににらみを効かせていた。
ゲーム会社の光栄(現コーエーテクモ)が出版元であろう事は、余程ゲームに興味がな
私と光栄ゲームパラダイス⑤
1993年に創刊された、ゲームと歴史の読者投稿本『光栄ゲームパラダイス』(隔月刊行)も、vol.10にて一旦終止符が打たれた。
次号からは『歴史パラダイス』と名前を変え、誌面が大幅にリニューアルされる模様。
書籍のサイズは小さくなるものの、ページ数は大幅増量するようで、したがって投稿が採用される可能性も少しアップするはず。
これはチャンスかもしれない。
ここまで採用されたのは、1年と数ヶ月
私と光栄ゲームパラダイス⑥
1993年に光栄(現コーエーテクモ)から創刊された『光栄ゲームパラダイス』(以下ゲーパラ)は、ネット普及前夜における歴史好き、ゲーム好きの交流&憩いの場として、次第にその存在感が世間に認知され始める。
10号目でリニューアルされ、誌名を『歴史パラダイス』(以下歴パラ)に変えてからも、大手誌の『ファミコン通信(当時)』でネタにされたりと、一部の好事家を相手に絶好調。
その波を、乗りこなせないまで
私と光栄ゲームパラダイス⑦
『光栄ゲームパラダイス』の1993年創刊から、作品の投稿を初めて足掛け2年、リニューアル後の『歴史パラダイス』にて、ようやくランキングにも名前が載るようになった。
数百名いる中でのだいぶ下位だけど、それでもゼロから始めた投稿生活、我が名が誌面に踊るだけでもモチベーションはうなぎのぼり。
とはいえ、実力が伴っているわけではないので、恐らくは、ふと冷静になった時に、ネガティブな感情がたちまちに湧き
私と光栄ゲームパラダイス⑧
1993年に光栄(現コーエーテクモス)から創刊された『光栄ゲームパラダイス』は、ゲームと歴史をテーマにした、読者作品主体の投稿誌だった。
ネットの普及前夜において、好事家達の交流&憩いの場として実績を重ね、隔月刊化の後、歴史寄りの『歴史パラダイス』としてリニューアル。
毎号、数百のアマチュア投稿作品が掲載され、令和の現在には誰もが知っているあの漫画家さんの無名時代の作品が載ってたり、逆に私のよ
私と光栄ゲームパラダイス⑨
1993年創刊の、ゲームと歴史の投稿本『光栄ゲームパラダイス』。3年の歳月を経て、とうとう月刊誌の『月刊DaGama』へとリニューアル。
記念すべき創刊号を、勿論書店に予約して、発売日に即ゲット。
書籍から雑誌になったため、中〜大型書店の歴史系雑誌コーナーにも定番的に置かれ始め、大手スポンサーの広告も誌面に登場するようになった。
予期してなかったメジャー化に戸惑いつつ、ページをペラペラ。
私と光栄ゲームパラダイス(10)
1996年に創刊された『月刊DaGama』。
その創刊号の特集記事に、私の作成したリストが一部採用された。
中国の歴史小説『三国志演義』に登場する、戦場での武将同士の一騎討ちを、抜き出して国別にリスト化したもの。時間さえあれば誰でもできる事だけど、普通はめんどくさくて手を出さない案件。
文才も絵心もない身としては、この辺りを攻めないと、インパクトは残せまい。
その戦略がうまくいったのか、そ
私と光栄ゲームパラダイス(11)
1996年に創刊された『月刊DaGama』は、ゲーム会社光栄(現コーエーテクモ)が刊行する、歴史とゲームをテーマにした投稿雑誌だった。
前身となる光栄ゲームパラダイス(1993年創刊)から足掛け3年と半年、門外漢ながらも謎のモチベーションと勢いで作品の投稿を繰り返し、膨大な量の作品のしかばねを乗り越えて、ようやく「常連」を名乗れる一歩手前までたどり着いた。
もうひと押し。さらなる高みを目撃すべ
私と光栄ゲームパラダイス(12)
編集部主催の交流会(今で言うオフ会)に参加する事で、編集部の方や自分以外の投稿者、そして読者の皆様と接する事ができ、自分が各位にどう認知されているかなど、投稿生活だけでは知れなかった刺激を得る事ができた。
このことを受け、投稿の戦略についても、自分の描きたい物から相手にインパクトを与える作品へと、より一層シフトする事となる。
自分の描きたい物が載った喜びも捨てがたいのだけど、認知される喜びの方
私と光栄ゲームパラダイス(13)
1993年光栄ゲームパラダイス創刊の時から続く、4年ちょっとの素人作品投稿の日々。
門外漢からスタートしたが、ちりも積もればなんとやらか、作品の採用率も徐々に上り、ついには交流会(今でいうオフ会)というリアルな場で「ファンです」と告白されたりしまったり。
いやた、嬉しいのなんの、天にも昇る気持ちになった。
幸い、我が身の丈は把握してたつもりなので、それらをさっ引いて、世の中がそんなに簡単なわ
私と光栄ゲームパラダイス(14)
1996年に創刊された、歴史とゲームの投稿誌『月刊DaGama』。
積極的に読者と編集部の交流イベントを企画していた同誌が、ついにその総本山である編集部を見学できるという企画を打ち出した。
同時企画として、当時発売されたての格闘ゲーム『三國無双』の大会も行われるのだという。
もちろん応募して、抽選の結果見事当選。
なけなしの貯金をはたき、新幹線で神奈川県は日吉に向かう。自身初めての関東入り
私と光栄ゲームパラダイス(15)
1997年3月20日。神奈川県日吉の株式会社光栄(現コーエーテクモ)内、月刊DaGama編集部にて行われた「編集部見学ツアー」。
同時に行われた「三國無双大会」で見事に優勝した私は、しおざきのぼる先生のイラスト入りの賞状や、同ゲームの非売品公式グッズを手に、ニコニコで記念写真に収まった。この様子は、次号の『月刊DaGama7月号』に掲載されるのだという。
え?顔写真が載るの?
ただ、過去の編
私と光栄ゲームパラダイス(16)
時は1997年、ひょんな事から月刊DaGamaに顔写真が載ってしまい、それがバズってしまう。
概ねお褒めの言葉が多かったが、本人は馴れない事態にどうして良いかわからず右往左往。とはいえ、順次ネタ的に消化され、じわじわと鎮静化、次第に平穏な投稿生活の日々が戻って来た。
ただ、今後私の作品が採用されて誌面に掲載される度に、一部の方々は私の顔をそこに重ねるのではないかと思うと、適当な数合わせ作品は迂
私と光栄ゲームパラダイス(17)
1997年も半分が終わった頃。
相変わらず実力は冴えないが、弱者の戦略と、謎のバズりを経て、毎号数通は必ず採用されるようになり、気付けば『光栄ゲームパラダイス』のVOL.8から26号連続で没なし街道を爆進、ランキングも常に1桁をキープして、「常連」を名乗るのにも我ながら抵抗は少なくなっていた。
それでも、前述の通り実力には折り紙が付かず、そして同等のランクの御歴々を眺めれば、真に実力で上がって