幸せな食卓〜箴言17章〜ゆっくり通読しよう
子どもが小さい頃、食卓の壁にこのみ言葉をかけていて、それがあるだけで温かい気持ちになりました。争いがなかったかと言えば、そうでもなかったけれど、今思えば、食卓を囲む幸せなひと時が、そこにあったのだと思います。
人を破滅に追いやるのも、救うのも結局はほかの人の言葉なのだと思いました。
みことばを蔑ろにすることは、破滅への道ですが、みことばを都合よく語ること聞くことも同じこと、もしかしたらもっと悪いことかも知れない。
人との関係に何か生じると、連鎖的に解決したはずの過去のこともどんどん思い出される。
その連鎖を断ち切ることはなぜか勇気がいる。
でも、いつまでもこだわっていたら結局自分が辛いし、誰とも愛のある信頼関係は生まれないのだと思う。
もう少しうまく伝えられればいいのにと思う。口論になるくらいなら言わない方がましということか。
常識さえないのに、知恵をお金で買おうとする。知恵はお金で買えるものではなく、神様から与えてもらうもの。
人前で嫌な人だと思われたくなくて、いい格好して、安易に物事を引き受けたり、誤魔化したりしてると、最後には立ち行かなくなる。
自分の心の中を覗いてみると、いろんな歪みが見えてくる。神様は愛のある関係を望まれる。自分ではどうしようもない悪意を神様が取り除いて下さいますように。
箴言は自分への言葉として読まないとと思うのだけど、とくに父母に関するところでは、子に読んでほしいと、思ってしまいます。
自分が立派な親とは思わないけど、箴言は若者に向けて書かれたそうだから、ある意味それも正しいのではないかとも思います。
とはいえ、私自身が自分の両親について、人間だから完璧ではないことを理解した上で、時には従い、感謝し労ったり愛することができるようになったのは最近のこと。
なんでもできる今の若者にはなおさら難しいのかもしれない。
黙っていると、知恵ある者と思われるのは経験からほんとだと思う。
でも、長くは続かず、口を開くと愚かさはバレてしまいます。
これは愚か者への進言でなく、知恵ある者への進言だと、自分の勘違いに気づかされました。