見出し画像

喜びの手紙〜ピリピ人への手紙 1章

1.主の喜びはパウロの喜び


ひとりのクリスチャンが起こされることはパウロにとって迫害に勝る大きな喜びだっただろう。 
ユダヤ人たちは伝道たちに語らせたくなかった。当時、福音を妨げるものはまず迫害で、迫害を乗り越えた先に福音は必要とする人の心に沁み入るように広がっていったのかもしれない。
今はどうだろうか。
投獄されたり鞭打たれたりはないけれど、少なからず傷つける人は、福音を伝えたいまさにその人たちだったりする。
人の心に福音はなかなか届かない。自分の無力さや人の態度に疎外感を感じることもある。
パウロが仲間に支えられたように、いつの時代も、ともに励まし愛しあう仲間が必要だと思う。

パウロの投獄を聞き、宣教の働きをする人が増えることを、救いの前進だとパウロは喜んでいる。
冒頭で、すべての信徒たちへとあるように、クリスチャン同士の一致をパウロは切に望んでいた。どんなことがあっても反対者に脅かされることのない強い団結。それほど宣教の働きは厳しいものだったのだと思う。

私にとって、生きることはキリスト、死ぬこともまた益

投獄されたパウロにとって、生死は隣り合わせだった。
生かされさらに多くの人々にキリストが伝われば、それは神様の喜び、死んで神様のみもとに召されれば、それはパウロの喜び。

2.動機の純粋でない伝道者


パウロは純粋な動機ではなく党派心からキリストを伝える宣教者たちであっても、あらゆる仕方で福音が伝わることを喜んでいる。たとえ、自分が苦しめられてもとある。

動機が純粋でない伝道者はどうなるか。いつか気づかされ悔い改めるのか、そのままなのか。自分を苦しめるだれかの動機が純粋でないと主張しても、それは意味のないことなのだろう。

人の利己的な動機の中に自分を見ることがある。
結局、責任を求められるは自分のことだけだ。人がどうであれ自分は自分の動機を問い続けなくていけないのだろう。
イエス様はすべての人を愛しておられる。

いいなと思ったら応援しよう!