
旧約の律法からキリストの律法へ〜ローマ人への手紙3章〜ゆっくり通読しよう
1.ユダヤ人である益は何か
ユダヤ人も異邦人と同じようにさばかれるのなら、ユダヤ人である特権は何かという問いかけから始まってます。
答えは、神のことばを委ねられたことで、それは大いに益だと書かれています。
しかし、選民であってもユダヤ人が不真実であれば、神様は真実な方なので正しくさばかれます。
また、パウロが語る福音に対して「律法は守らなくてもよい」と教えていると、中傷するユダヤ人がいたようです。そういう人たちも当然さばかれると言っています。
神様は不義をそのまま見逃すことはされません。
2.ユダヤ人はすぐれているのか
すべての人は罪人であり、ユダヤ人だからといって、すぐれているところは全くないと書かれています。
益は大いにあるけれど、それはユダヤ人がすぐれているから与えられたものではなく、益があるからといってすぐれていることにはならない、ということでしょうか。
3.すべての解決はイエス様の十字架にある
イエス様の十字架により、ユダヤ人も異邦人も等しく、信仰により義と認められるようになりました。
「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」ローマ書3章20節
「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現れたので、私たちはもう養育係の下にはいません。」
ガラテヤ書3章24.25節
律法によって人が神様の前に罪を認めるなら、律法は養育係としての目的を果たし、その人が御子イエス様の十字架の贖いを信じ、義とされることを、"信仰によって律法が確立する"とパウロは言っているのだと思います。
全体を通して、
ユダヤ人は選民としての誇りを持ち、聖なる生き方についてこと細かく記した厳しい律法を、受け継いで来ました。なので、すべての人へのキリストの信仰による律法を、受け入れるのが難しいことは容易に想像できます。しかし、ユダヤ人は預言者の書も学んでいて、そこにはキリストの贖いの死についても書かれています。ですから、目が開かれた時には躊躇なく神様に立ち返ることができるのではないかと思いました。
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参考---ローマ人への手紙3章(新改訳2017)---