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罪の奴隷から義の奴隷へ〜ローマ人への手紙6章〜ゆっくり通読しよう
1.わたしたちは罪にとどまるべきでしょうか
はたから見るとそれは悪いことなのに、本人は罪の意識がまったくないようなこと、あります。
善悪の基準が人によって違うから、
この世の常識的考え方が今やそうなってしまっているから、でしょうか。
良心は割と簡単に鈍ってしまうように思います。その点では、律法を持ってると指針がはっきりしてるのだろうと思います。
もしかしたら、自分は赦されてるからと開き直ってしまうのかもしれません。
気づかないで犯す罪への赦しは、日々、知らないうちに自動的に、恵みとして増し加わっていると思うと感謝です。
だからこそ、
恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。
決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。 1-2節
罪だと気づける罪の中には決してとどまっていてはいけないんだと思いました。
2.『罪の奴隷』と『義の奴隷』
『罪の奴隷』としての行いは、その一時は、心地よかったりスッとしたりするかもしれませんが、後から恥ずかしい思いをします。何の実も得ません。
一方、心の底から湧いてくる他人に対する悪い感情は自分ではどうすることもできません。でも、結局それは自分を傷つけます。
自分を傷つけるものは、もしかしたら他人ではなくて自分自身が抱く感情なのかも知れないと思いました。
『義の奴隷』として生きることは、奴隷という表現通り、やっぱり従うのが辛い時もたくさんあるのではないでしょうか。でも、従うと聖潔に至る実を得るとあります。
3.キリストとともに永遠を生きる
こんな者であっても、すでに罪は十字架につけられ、聖潔に至る実、キリストとともに生きるいのちを得ています。感謝です。
パウロは人間の古い罪の性質による弱さを知り、
"聖潔に至る実をすでに得ているのだから、そのとおり聖潔になるように努めなさい"
と、あえて言ってくれているのだと思います。
神様どうぞ、今私の心を縛る罪一つ一つから私を自由にしてください。罪が心に上る前に守って下さい。
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参考---ローマ人への手紙6章(新改訳2017)---