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キリスト賛歌〜ピリピ人への手紙2章


1.決して無駄にはならない

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。

  人としての姿をもって現れ、
  自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
 それゆえ神は、この方を高く上げて
すべての名にまさる名を与えられました。  

  それは、イエスの名によって、
  天にあるもの、地にあるもの、
地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

6-11節


イエス様のこの地上での生き方について要約されています。キリスト賛歌と呼ばれるそうです。

たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。 17節


死ぬことも益だと言ったパウロの生き方は、イエス様に倣った生き方だったんだなぁと思います。なので、その生き方が決して無駄になることはないとパウロは知っていました。

2.気づかないだけ

みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。 21節


誰も自分のことなど気にかけていない、誰からも愛されていない、そんなふうに思う時、その目を自分ではなくイエス・キリストに向けると知ることができます。
気づかないだけで、すでに愛は存在してます。イエス様の中には真実の愛が豊かに溢れるほどあり、決して失われることがありません。

パウロの喜びは福音を伝えた人たちが、愛し合い一つとなって喜びの中を生きることでした。
人との比較の中で、自分のことしか考えられない世の中にあって、愛し合い生きることができる関係は、どんな人にも最高の幸せ、財産ではないだろうかと思います。

もし、私たちの間に愛があれば、きっとそこにイエス様の愛が現わされるでしょう。
キリストの愛はこの世の利己的な愛とは全く違う輝きを放つのだと思いました。

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