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【北大阪環状モノレール】第1回 構想の概要と構想の舞台「北摂」について

2023年暮れに茨木商工会議所より発表された「北大阪環状モノレール構想」。突如発表された新路線構想に世間の注目が集まりました。
人口減少、運転手不足など、都市部といえども公共交通の経営困難がいわれる中で出されたこの構想は、これからの地域交通、さらには地域のあり方を改めて考えるきっかけになるものではないかと思っています。
どのようにすればこの構想を実現することができるのか。
これから数回にわたって、この構想の概要、計画地域の状況を紹介するとともに、この構想を実現させるためにどうすればいいのか、考えてみたいと思います。


第1回目は、北大阪環状モノレール構想の背景と、このモノレールを整備する目的を北大阪環状モノレール準備室のホームページに掲載されている内容をもとに整理しました。また、構想の舞台である「北摂」ほくせつ地域について紹介します。


北大阪環状モノレール構想とは

構想の背景

「北大阪環状モノレール構想」は2023年12月、大阪府茨木市の茨木商工会議所が立ち上げた「北大阪環状モノレール準備室」によって発表されました。
準備室のホームページには、この構想の背景が次のように記されています。

「私どもは北摂地域の生活利便性の飛躍的な向上と、北摂各市の産業の更なる発展の為に、北摂地域に新たに環状モノレールを走らせるという壮大な目標を掲げ、事業化すべく昨年12月13日に『北大阪環状モノレール準備室』を開設致しました。
このモノレール計画は大阪北部、特に北摂を中心とした副都心化を図るもので、北摂のみならず近畿圏のⅤ字回復のために絶対必要不可欠なものであり、北ヤード再開発や今回の万博と同時に大きなインパクトを与えるものです。」
           (北大阪環状モノレール準備室ホームページより)

整備の目的

準備室のホームページに記されている内容を整理すると、このモノレールの整備目的は次のようにまとめらます。

  1. 茨木市中心部において、ばらばらに整備されているJR京都線、大阪モノレール、阪急京都線の各駅間の相互連絡を図り、市中心部の交通利便性を向上させること。

  2.  運転手不足、交通渋滞、環境問題を克服し、市内交通を持続可能なものに転換すること。

  3. 茨木市内各所から、日本全国を結ぶ幹線交通網、関西国際空港へのアクセス性を向上させること。

  4. (1)から(3)を通じて、茨木市内全体の交通利便性と市内交通の持続可能性を飛躍的に向上させ、市内に世界的な企業や研究機関を誘致し、茨木市はじめ北摂を新しい文化や技術の発信拠点とするとともに、大阪の副都心機能を担える街にすること。


北大阪環状モノレール構想 路線図。ほぼ茨木市の形に沿った環状線
<出典>北大阪環状モノレール準備室ホームページ


北大阪環状モノレールが構想されている「北摂ほくせつ」とはどのような場所なのか


北摂の概要

北摂とは、古代、摂津の国に当たる地域の北部を指します。一般的には、大阪府北部の三島・豊能両地域を示すことが多いようです。
大阪府の北摂地域には吹田市、茨木市、高槻市、摂津市、島本町、豊中市、池田市、箕面市、能勢町、豊能町があり約181万人が暮らしています。

北摂地域の概要

歴史ロマンあふれる場所

高槻市から茨木市にかけては三島古墳群とよばれる大小500あまりの古墳があります。中には継体天皇陵とされる太田茶臼山おおだちゃうすやま古墳や、大化の改新で有名な藤原鎌足の墓とされる阿武山あぶやま古墳があり、歴史ロマンあふれる場所です。
古代より貴族や寺社の荘園が広がっていたほか、京都から山陽、九州方面へと続く西国さいごく街道が通る交通の要衝ようしょうでもありました。

茨木市にある西国街道の郡山宿本陣
<出典>Wikipediaより
Tonatsu - 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8449596による

今に続く日本人のライフスタイルの原型が形づくられた場所

20世紀に入ってから北摂は、工業化が進み生活環境が悪化する大阪中心部に替わる郊外の住宅地、ニュータウンとして注目されました。住宅地開発は主に私鉄により進められましたが、そのさきがけとなった阪急電鉄を創業した小林一三氏による住宅地開発は、北摂の池田から始まりました。

日本の郊外住宅開発の嚆矢として知られる小林一三氏
<出典>国立国会図書館
「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)より

ニュータウンづくりの流れは、戦後の高度経済成長期に加速され、北摂の千里丘陵には日本最初のニュータウン「千里ニュータウン」が開発されました。
私鉄による郊外住宅開発、戦後のニュータウン開発と、北摂は今に続く日本人のライフスタイルの原型が形づくられた場所だと言えます。

千里ニュータウンの町並み

EXPO’70 大阪万博が開催された場所

1970年には千里丘陵で万国博が開催され、日本全国はもちろん、全世界から6,400万人あまりの人々が北摂を訪れました。
70年万博のシンボル「太陽の塔」は、1975年に永久保存されることになり、北摂、そして大阪のシンボルとして人々に親しまれています。

北摂そして大阪のシンボルとなった万博記念公園にある「太陽の塔」

日本の重要交通路が交わる場所

古代より交通の要衝であった北摂は、現在でも交通の要衝です。
東海道・山陽新幹線、JR京都線(東海道線)、名神高速道路、新名神高速道路、中国自動車道、近畿自動車道、伊丹空港など日本の重要交通インフラが集中しているほか、北摂の町と大阪中心部を結ぶ私鉄の路線網が広がっています。
北摂の地を多くの人やモノが、24時間休むことなく行き交っています。

名神、中国道、近畿道の吹田JCT・IC
首都圏、中京圏と西日本各地を結ぶ自動車交通の結節点

今回は「北大阪環状モノレール構想」の概要と、構想の舞台「北摂」についてみてきました。
次回(第2回)は、構想の中心地、大阪府茨木市の概要と、構想の中で示されている駅ができる場所の状況を見ていきたいと思います。


参考情報

1)北大阪環状モノレール準備室ホームページ


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