歌う女【サウナのサチコ『裸の粘土サウナー』第27回】
私の頭の中には常に歌が流れている。
それは物心ついた頃から現在まで変わらず、毎日欠かさず、朝起きてから夜寝るまで脳内に歌が流れ続けている。別段、それについて困ってはいない。煩わしさもない。ただ頭の中の歌がつい、口をついて出てきてしまうことだけは非常に困っている。
それは鼻歌なんてもんじゃない。私の場合、はっきりとした歌詞を含んだ歌になって出て来る。お風呂やトイレで歌うのは当たり前、会社で仕事をしていてもうっかりすると歌っている。自転車を漕いでいる時も無意識に歌い出し、通りすがりの人に振り返られたことも何度もある。酔っ払いだと思われたかもしれないが、もちろん私は素面だ。
子どもの頃から歌うことが好きだった。母の影響で覚えた懐メロ、昭和歌謡を一日中歌って過ごした。アイドルの歌も好きではあったが、自分で歌うなら昭和歌謡の方がしっくりきた。しかし家族の誰も、私の歌を褒めない。いつか歌手になって徹子の部屋に出ようと、鏡の前で練習もした。歌の練習ではなく、なせ歌手になったかの流れを説明する練習だ。舞台に立ち、人前で歌いたい。大好きな歌を褒めてもらいたい。その願いはどんどん募っていった。
しかし小学校では人前で歌う機会はなかった。音楽の時間に合唱もあったが、皆で歌うことには興味がない。さらに合唱曲の前向きな歌詞や、壮大な曲は好きになれなかった。私が歌いたいのは、安アパートで生きることに疲れ、愛することに疲れた女の歌なのだ。
中学に入ると歌のテストがあった。舞台ではないが、人前で歌えるチャンスがようやく巡ってきたと私はワクワクした。テスト曲は「この広い野原いっぱい」。あんまり好きではないが仕方ない。短い曲だが仕方ない。私はテストの日まで、何度も家でシュミレーションした。歌のシュミレーションではなく、私が歌った後の、皆が感動している顔を脳内でシュミレーションしていたのだ。テストはピアノ伴奏で行われると聞いた私は、念のためにその準備もした。当時、無駄に習っていたピアノの先生に「レッスンしてほしい」と頼んでみた。先生は快く伴奏してくれた。ピアノの音が聞こえてくると私はふと「家族以外の前で歌うのは、これが初めてだな」と思った。その途端、喉が締まるような気がした。歌い終えた私に、先生は感想を述べることもなく、微妙なリズムの違いだけを指摘した。それを私は勘違いした。きっとその程度しか直すところがない、完璧な歌唱力だったのだろうと。
テスト当日。クラスの皆は照れもあるのか、適当に歌っている。うまい人など一人もいない。私の番が来た。名前を呼ばれて立ち上がると、何故かまっすぐ立てずにふらついた。ピアノに合わせて歌い出す。自分の歌がよく聞こえない。喉から声を絞り出す。歌い終えると、皆が静まり返っている。思惑通り、感動させてしまったのだろうか。するとどこからか「本気じゃん」という言葉と、くすくす笑う声が聞こえてきた。私は自分の顔が赤くなるのがわかった。皆は私の歌に感動しているのではなく、「この広い野原いっぱい」を力いっぱい歌う人間に驚いているのである。下手なくせに本気出してると思われた・・・。そこまで言われていないのに、私はそう受け取った。そして「昭和歌謡ならうまく歌えたのに」と思うことで、なんとか自分を保った。
高校時代はバンドブームだった。友達は何人もバンドを組んでいた。当時好きだった男の子もバンドを組んでいて、文化祭で演奏することが決まっていた。ボーカルは隣のクラスの女の子。大してうまくもなかった。私の方がもっとうまいのに。そう思いながら、「私をバンドに入れて」と誰に頼むこともせず、誰かに「一緒にバンドをやらないか」と声をかけられることもなく終わった。ただ一人、田舎道で昭和歌謡を歌いながら、まっすぐ文房具屋のバイトに向かう高校生活だった。
その後も、ずっと私の頭の中には歌が流れ続け、私の口からは歌がこぼれ続けた。カラオケに行って人前で歌うことは何度もあったけれど、音痴の友達より私は点数が低く、採点マシーンは私の歌のバランスの悪さを容赦なく指摘した。声量さえあればと、広瀬香美の弟子と名乗る人にレッスンを受けたこともある。しかしボイストレーニングの度に、いひひひ言い続けることや、ぶるぶる唇を震わせ続けることが嫌になってやめた。いやそれは言い訳で、何度通ってもちっともうまくならない、先生に褒められない、そんな自分に耐えられなかったのである。それから私は、歌とは全く関係のない勉強をし、仕事をし、粘土をこねることになった。
ところがある日、再び人前で歌うチャンスがやってきた。「なにわ健康ランド湯〜トピア」で行われた、大西一郎の歌謡ショーである。
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