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なぜ「あたし男に『生まれればよかったわ』」なのか / 中島みゆき『ファイト!』
中島みゆきの曲『ファイト!』が好きだ
リリースは1983年。当時の上京を目指す女性が受けたであろう理不尽さが、札幌出身の彼女の言葉を通して表現されている
千原ジュニアが『人志松本の○○な話』で冒頭の衝撃的なシーンを紹介していて、その曲を知ったと記憶している
なぜ「あたし男に『生まれたかったわ』」ではないのか
『ファイト!』の詞中にこんな一節がある。
あたし男だったらよかったわ 力ずくで男の思うままに
ならずにすんだかもしれないだけ あたし男に生まれればよかったわ
一見、不条理な世の中を生きるには力のある男に生まれたかった、と読める。嗚呼人生は不平等だ、と。
しかし僕は少し違和感を覚えた。最後の一文、なぜ「あたし男に生まれればよかったわ」なのだろう。
なぜ「あたし男に生まれたかったわ」ではなかったのだろう。
詩におけるテクニックなのかもしれない。北海道の方言で、意味としては同じなのかもしれない。あくまでこれは標準語しか話せない僕の理解である。
ふつう、生まれてくるものに性別選択の自由はない。「男に生まれれば」からは、あたかもその選択肢があるかのような、歌い手(もしくは当時の中島みゆき)に微かに残された「能動性」を感じた。
才能を持ち上京を目指すも社会に阻まれ、自分を抑える術を教えられる。気づけば自分自身も社会の一部に、「私の敵は私」に。
彼女が望んでいたものは性別としての男女ではなく、生き方としての男女ではないだろうか。
「力ずくで男の思うままにならずに」生きるために彼女が本当に求めていたのは、男への生まれ変わりではなく、そうした力に屈さない生き方だったのではないだろうか。その生き様を「男」と表現したのではないか。
なんらかの理由でその生き方は叶わなかった。
それは「年齢」かもしれないし、(トートロジー的だけど)「性別」かもしれない、それらを判断基準として立ちはだかる「社会」かもしれないし、社会を取り込んでしまった「自分自身」なのかもしれない。
そして、彼女にとって同じ夢を追い続けることはこの先も叶わないのかもしれない。
そんな歌い手が唯一できること。それが、残された気力を搾り出し、「ファイト!」と誰かの背中を押すこと(※)。
外に出れば冷たく厳しい世界が待っているだろう。それでも「小魚たち」が海に自由に出れるように。自分で自分を縛るのは、彼女が最後になると願って。
ファイト!
(※)「電車の駅」のシーンは、エールを送る人、送られる若者、それを嫌悪の目で見てしまう自分の、メタファーなのかもしれない
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