【ドバイ便り】vol.3:天空の額縁と過去の昇華
ホテルに到着しドアを開けた瞬間、わたしは息をのみました。
そこには初めて嗅ぐエキゾチックな香りと、中東らしい数々の装飾品が広がっていたのです。
その香りは、ほんのり甘く、でも不快ではなく、とても心地よいものでした。
もう既にこの香りを日本に持ち帰りたい気分になりました。
貧乏旅のわたしが選んだのは、よく想像されるようなきらびやかで豪華絢爛なホテルではなく、地元の安宿のようなホテル。
そして、ただでさえ東洋人はまだ珍しいドバイの小さな宿に、ふと降り立ったひとりの日本人の女の子。
ロビーにいた人々は物珍しそうにこちらを見ていました。
英語がほとんど話せないわたしは、チェックインの時緊張しましたが、顔の濃い受付の男性は手慣れているらしく、パスポートを受け取ると事務的に手続きをこなしました。
ここはドバイ。
住民の8割は外国人で、中には英語が喋れない人間もいます。
よく「ドバイって何語で話してるの?」と聞かれることが多いですが、ドバイは基本的にすべて英語です。
そして観光客も多いため、みんなとても分かりやすく聞き取りやすい英語を話してくれます。
わたしのような英語ができない人間に対しても、親身になって単語やジェスチャーで要件を伝えてくれるのです。
みんなドバイという異国に来て、仕事をして、助け合って、感謝しながら生きている。
そしてみんな少し寂しがりやで、人懐っこくて、とっても親切で、でも無理に他人に立ち入らない。
日本では全く味わったことのない感覚でした。
チェックインすると、係の人が荷物を部屋まで持って行ってくれました。
部屋を開けるとそこには身分不相応な大きなベッド。
ドバイは何もかもが大きいのです。
見たことのない形をしたシャワーの使い方に戸惑いながらも、その日からわたしのドバイ滞在が始まりました。
翌日、ドバイを案内してくれるZoomの人(仮にタカさんとします)と合流し、わたしたちはドバイ観光へ出かけました。
7月のドバイ。
昼間はピークで気温が50度にもなる地域です。
暑さに慣れないわたしをよそに、タカさんは慣れた様子でドバイマリーナを案内してくれました。
ドバイマリーナは、ドバイの中でも一番大きくて美しいビーチ一帯のことを言います。
美しい白浜と澄んだ青い海、そして背後に立ち並ぶ超高層ビル群が織りなす景観は、まさに現代のオアシスとも言えるでしょう。
高級ヨットハーバーや高級住宅地、ショッピングモールなども併設され、ドバイの豪華さと近代性を象徴する場所です。
真夏のビーチには誰も人がおらず、独り占めでしたが、わたしは暑さに耐えかねてすぐに室内へ入ってしまいました。
タカさんとコーヒーを飲み、暑さをさますとふとタカさんが言いました。
「ドバイフレーム行こうか」
ドバイ観光を調べていたときに見かけた名前。
写真のフレームのような長方形の建物から、ドバイの景色を一望できる観光名所です。
わたしたちはタクシーに乗り込み、ドバイフレームへと向かいました。
遠目からでもわかる、フレームの形をした巨大な建物。
近づくにつれその大きさに圧倒されました。
見上げるだけで首が痛くなりそうな、大きくきらびやかなその建物に、人がどんどん吸い込まれていくさまが見えました。
中へ入ると、そこにはドバイの歴史に関わる展示物。
それを見た後、高速エレベーターで一気に150メートル上へと向かいます。
頂上からは、ドバイの景色を一望することができました。
巨大な建物群がまるでミニチュアに見える不思議な感覚。
オールドドバイは砂漠の色一色で、中東独特の雰囲気がまるで魔法のランプの世界のようでした。
ドバイフレームは一部の床がアクリルになっていて、そこから真下を見下ろすことができます。
わたしはそこに立ち、下を見つめてみました。
すうっと魂が持っていかれるような感覚。
地上150mから見下ろすその景色を目にしたとき、わたしはふと昔を思い出しました。
生きる意味が分からなかった若いころ。
家にも学校にも居場所がなく、特に美しくも秀でているわけでもないわたしはただ人生を諦め、努力を放棄し、お酒を飲み始めてからは毎日泥酔しては現実逃避し、早く死ねないかばかり考え、薬を大量に飲んだり睡眠薬と酒をあおり自分を痛めつけては被害者ぶって泣いていました。
こんな下らない世界。
こんな下らない人生。
早く終わってしまえばいいのに。
生きる力もない、ただ絶望の日々。
自分はこの世界に必要ない、何もない、生まれてきた意味のない存在だと思っていました。
泥酔すると、泣きながら毎日ベランダから下を見下ろしては、ここから落ちたら死ねるんだ、こんな下らない人生の幕を引くことができるんだと思っては、飛び降りる勇気もなくただうずくまってとめどなく流れる涙を止めることもできずにひとりで泣いていました。
早く死にたかった、その景色。
かつて6階から飛び降りる勇気がなかったわたしは、今、地上150mからそんな自分を見下ろしていました。
地上からあまりにも遠いその景色からは、あまりに現実味がなさ過ぎて飛び降りる想像すらつかなかった。
そんなこと初めて知りました。
ふと見ると足元には、小さくうずくまって肩を震わせ、世界を憎悪と絶望の目で見つめる女の子がいました。
「今の自分は、あのとき死ななかった、その連続で生きている」
そのあまりに壮大な人生の偶然を感じた時、わたしは思わず涙が溢れました。
かつて貧乏で不細工でみすぼらしく、何もできない、何の能力もなかった女の子は、今、王子様に頼ったりもせず自分の力で自分のサイズのガラスの靴を作っていました。
そう、それはいびつではあるけれども、世界に一つしかない、世界一美しいダイヤモンドのような靴。
わたしは足元にいる女の子に話しかけてみました。
「もう大丈夫だよ、ありがとう。
あなたがそのとき死ななかったから、今のわたしがいる。
あなたには世界は暗闇にしか見えないかも知れないけど、視点を変えたら世界はこんなに美しいんだよ。
だから、安心してね。
あなたは近い未来、もっと高くて美しい場所から世界を見下ろしているから。
だから、大丈夫」
そう語りかけると、女の子は少し笑ったような気がして、そしてしゅわ~っと消えていきました。
ドバイフレームは、わたしの暗い過去を昇華することのできた記念の場所となりました。
ふと意識を戻して周りを見渡すと、そこには世界中の様々な人種の人たちが、笑顔で思い思いに景色を楽しんでいました。
わたしはなんだか、肉体がなくなって魂だけがそこにいるような感覚になりました。
自然と祈りのような気持がこみ上げてきました。
この平和がいつまでも続きますように、人々がずっと笑顔でいられますように。
わたしたちはドバイフレームを一通り堪能した後、ドバイの象徴であるブルジュハリファへと向かいました。
その瞬間、わたしの心には新たな冒険への期待が芽生えていました。
ドバイという街が、わたしの人生にどんな色を添えてくれるのか、その答えを探す旅はまだ始まったばかりでした。