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#2 宮崎勤とバブル崩壊

ここに10万人の宮崎勤がいます!

コミケ会場でリポーターが言ったとされる言葉(1989年夏?)

1989年7月、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人として宮崎勤が逮捕された。今日において彼を語る際、必ずといっていいほど言及されるのがオタクバッシングである。狂気的な犯行の原因を自室に積まれていたサブカルチャー雑誌に帰結させ、マスメディアが「オタク=犯罪者予備軍」のレッテルを貼ったことはオタクの受難のはじまりとして広く認識されている。ゆえに、宮崎はオタク最大の敵であるかのように扱われ、ついには一種のタブーとなった。

第2回では宮崎とオタクの関係について整理した上で、当時の大局的な流れを追い、逮捕から35年経った今もオタク文化が宮崎の幻影に支配されていることを解明する。

宮崎はおたくでなかった

まず初めに述べなければいけないのは、宮崎はおたくではなかったということである。宮崎が主に行っていたのはテレビ番組のビデオ録画であり、そのテープを仲間内で貸し借りして楽しんでいた。特筆すべきは、番組が特段オタク的なものではなく、ジャンルは多岐に渡っていたということだ。実際、彼の部屋に積まれていたのは、偶然目のつくところにあったのがロリコン系雑誌だったというだけで、ホラー雑誌や一般的な漫画作品などの方がむしろ多かった。しかしながら、メディアは視聴者からの関心を得るために、この事実を誇大的に報道し、歪な犯人像を作り上げた。これは後で述べるおたくのメディア=世間に対する姿勢に大きな影響を与えたわけだが、少なくとも宮崎が嗜好の部分でさえおたく的でなかったことは容易に理解される。

宮崎はまた精神的な部分でもおたくとは到底言えない人物であった。彼はどちらかといえば録画する番組というよりも録画することそのものが好きだったように思われる。録画にあたっては必ずフルエピソードを収め、仲間に録画を頼むときもそれを要求する、完璧主義者だったのだ。他にも人間的な意味でトラブルメーカーであった彼は、次第に仲間からも疎んじられ、孤立していく。そもそも彼が録画に手を出したのは人間関係を構築する手段としてであった。このことはいずれ登場する加藤智大についても同様だ。つまり、彼は「おたくになろうとしていたただの人間」である。

おたくはどうしたか

当然、メディアはこんなこと理解していない。おたくの預かり知らぬ内におたくは最低最悪のイメージのまま世間の白い目に晒されてしまった。宮崎が話題になる前からわずかにあったおたく特集では、おたくはサーカスの見世物の如く、好奇の目で見られていた。これもまた良いか悪いかと言えば良くないのだが、軽蔑されるよりはマシだっただろう。言論人の中には新たな知的階級としておたくを定義付けようとする動きさえあった。しかし、事件以降、そうした流れは縮小を余儀なくされた。

窮地に陥ったおたく達に与えられたのは、次の2つである。1つは、ほとぼりが冷めるのを待ち、再び世間の影に隠れる存在となること。もう1つが、逆におたくの社会化を図り、積極的に進出することである。1990年代初頭において、明確にどちらかが選択されたというわけではない。しかし、およそ十数年後の時点から振り返ってみると、前者は後者に駆逐された、と見るのが正しいであろう。

2つの選択肢は、そのまま2つの派閥におたくを水面下で分断した。この分断は、実は日本経済に対する人々の見方の変容と類似している。90年代初頭といえば、バブル経済の最盛期から徐々に低迷していった時代である。宮崎が逮捕された1989年代の年末、大納会で日経平均株価は当時史上最高値の38915円に達したが、その後次第に下落し、1992年には2万円を割った。だが、一般的には景気は調整段階にあるのであって、しばらくすれば好況に戻るという見方が大勢だったし、実際そうだった。しかしながら、1997年度から橋本政権による総額17兆円の歳出カット・5%への消費増税が行われたことにより、日本経済は急降下。その後支配的になったのが「不況は経済構造に問題があり、むしろ今が改革を行うチャンスである」という主張であり、ここを衝いた小泉政権は功罪共にある改革路線を突っ走るわけだが、この流れは『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)の放映によっておたく文化がカルチャーとして社会に注目されたことで「今こそおたく文化を世に知らしめるときである」という主張が勢いづいたことと何か重なる部分がある。「むしろ今が」「こんな時こそ」という発想は、2011年の東日本大震災や2020年のコロナ禍にも共通する“失われた30年”の象徴的な思想でもある。

もちろんわれわれはこうした判断に慎重な姿勢を要求される。エヴァの放映によって全おたくが一斉に社会化を志向したわけではないからだ。詳細は次回に譲るが、当時のおたくは両者の間で揺れており、「世間に理解されたい/理解されなくてもよいから放っておいてほしい」という複雑な心境にあったことを付記しておきたい。けれども、宮崎勤によっておたくが未曽有の危機に陥り、その突破口として彼らが社会化を位置付け、エヴァ、ハルヒといった時代毎の転換点のみならず、昨今の表現規制問題やアンチ-フェミニズムにおいても「オタクは(宮崎勤のように)犯罪的でない」という論法が通奏低音として機能していることもまた事実である。

手段の自己目的化

ところで、おたくの選択は果たして正しかったのだろうか。私の立場からすれば「NO」である。いや、厳密にいえば「NES(※)」か。たしかに当時のオタクバッシングは相当のものであっただろうことは想像に難くない。宮崎勤事件以前から存在していた有害図書追放運動なるものも手伝って、おたくが冬の時代、暗黒時代を過ごしたことには同情を禁じ得ない。90年代初頭を乗り越えた創作家には敬意を表する。

しかし、しかしである。おたくの社会化という手段はあくまで短期的な手段であるべきなのであって、長期的に行えばおたく自体を破壊することとなってしまう。前回述べたように、おたくの定義とは「意志する単独者」である。社会に順応するとは、すなわち大衆に受けることだ。大衆は意志を持たない。意志のないおたくはおたくたる要件を1つ失っている。彼らはこのことに気づけなかったのだ。

要するに、マイナスをゼロに戻そうとする社会化が、知らぬ間におたくの目指す至上命題にすり替わるという、手段の自己目的化が起こってしまったのである。一度曲がった幹は、若い頃はいざ知らず、成長するにつれ自身の重みでますます曲がる。おたくの非おたく化は、まさにこの瞬間に始まり、そして現在に至るまでついに修正されることはなかった。その要因は何か―宮崎勤事件である。

※(YES+NO)/2

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