ガルパンが終わるとき
『ガールズ&パンツァー』(以下ガルパン)が素晴らしいということは周知の事実であろう。私としては『東方Project』(これについてはまたいつか書く)のようにn次創作が四半世紀は続いてほしいのだが、残念ながらガルパンは既に古典の仲間入りをしている状況である。本稿ではガルパンの良さと孤独、そして完結がいかに大変な出来事かということについて語ろうと思う。
ガルパンはいいぞ
などという言葉では表しきれないほどの魅力をガルパンは秘めている。まずは作品単体として見ていこう。よくガルパンを典型的スポ根アニメと評する立場がいるが、それはあくまで一面的分析に過ぎない。やはりミリタリーと萌えの掛け合わせに注目すべきである。それまでミリタリーと萌えを組み合わせた作品には2種類あった。1つは『GUNSLINGER GIRL』的「戦闘美少女」モノで、もう1つは単なる「萌えミリ」モノである。両者には明確な違いがあるということを示しておきたい。戦闘美少女モノは戦乙女であり、少女らが絶望の中武器を取り果敢に敵に立ち向かう(そして陵辱される)様を描く。男共が血と汗を流すよりも優秀な少女らが必死に抵抗する方が映えるのである。戦闘美少女モノにも当然萌え要素はたくさんあるが、それはどちらかというと陵辱を好むサディズム的な萌えである。一方で萌えミリは少女が軍服を着て武器を持つという点では戦闘美少女と似ているが、そこに必ずしも血や絶望や生傷は必要ない。女の子が軍事に関わるギャップ萌えと言ってしまえば分かりやすい。
前者は『魔法少女まどか☆マギカ』というセカイ系魔法少女系戦闘美少女系を一気に大成させた物凄い作品によって有終の美を飾った(はずだった)が、後者はむしろ東日本大震災の顧慮的な意味があったかは知らないが、2011年を境に主流派を占めるようになる。2012年10月に放送が始まったガルパンはまさに萌えミリの代表格なのである。
ガルパンでは血は流されない。安易に少女は絶望しない。むしろ空気系的な平和が保たれている。戦車にデコレーションするのも頷ける。
だが、ガルパンの真なる魅力はそこではない。ガルパンには各国をモデルとした学校が登場する。各校はその国のステレオタイプが表象されているほか、歴史的な小ネタがふんだんに詰め込まれている。これは日本をモデルにした国を「秋津洲皇国」だとか「扶桑帝国」だとか言っているレベルではない。WWⅡ当時のフレーバーが萌えミリというジャンルを通して蘇っているのである。ガルパンは戦車好きよりも歴史好きが観るべきなのかもしれない。ちなみに『ヘタリア』の方がそういった趣旨が強いのだが、あれは腐女子の論理から出発しているので、ここでは比較を避けておく。
ガルパンの孤独
「萌え」という言葉が死語となり、「死語」という言葉も死語となって久しいが、現状ガルパン以外に真剣な萌えを提供している作品はないと言っても過言ではない。ヲタクの罪は色々あるが、最大の罪は萌えを総括することなくジャニオタに敗北し「推しが尊い」などと言い散らかすカルトに染まってしまったことであろう。そのせいで萌えは忘れ去られ、この10年間ただ独りガルパンだけが萌えの残滓を懸命に引き継ぐ羽目になったのだ。
ガルパンおじさんを見れば話は早い。ガルパン関連の動画をYouTubeで検索すると、コメント欄では氷河期世代のおじさん達が変態道に邁進している様が確認できる。現今のオタクは「エロ」と「フェチ」、「スケベ」「えっち」「ヘンタイ」などを何の区別なく一緒くたにしているが、ガルパンおじさんは(無意識ではあろうが)まさにヘンタイなのであり、つまらないイラストレーターのPixiv絵に興奮してばかりいるスケベ野郎とは一線を画しているのだ。こうしたおじさんを生み出すことができているのもガルパンが有するロリィタ的萌え少女達の功績である。
大切なことなき人生に価値なし
ガルパンがアイドル商法に負けず萌えを保持していることはこの上ない安心材料なのだが、無常の現世ではガルパンも完結の運命を背負っていることもまた事実である。2023年現在、最終章第4話の上映が告知されており、向こう4、5年で完結することは明白である。もしガルパンが完結すれば、この国のアニメ産業最後の良心が失われ、萌えは誰も顧みない化石となってしまう。「ガルパンが終わるまで死ねない」と語っていた中年男性は心中するかもしれない。希望である二次創作も、果たしてどれほどの力が残っていようか。『艦これ』が10周年で復活しつつあるのとは裏腹に、衰退が浮き彫りになる悲哀のガルパンである。