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コミュニティを立ち上げた人が答えを持っているわけではない。みんなで答えを探し出すのが楽しい

サディととっちーのお話がとてもよかったというお話。

>サディ:ラボにどんな役割があったほうがいいのかってこと。それを僕の指示待ちじゃなくて、みんなが話し合って決めていく。そうやって、みんなの知恵が健全に出たほうが、いいだろうなって。今年からだよね、もうラボの運営を全部任せていて。
>サディ:運営もどんどん自分たちでやっていくと、どんどん自分ごとになってくるし、全体像が見えている中でやることって楽しいんだよね。そういうふうになってくると、とにかく楽しいことがいっぱいになる。
>サディ:話を聞いて考えるっていう行為は、やっぱり受け身だから。それを自分の言葉にして吐き出してみたりだとか、実際に何か活動を始めてみたりだとか、そういうことをしないとだめかなって思うよね。

この内容を受けて、僕が思ったことはこちら。

2018年、サイボウズ式第2編集部というコミュニティを作った。

もとは「読者ともっと仲良くなりたい」「いっしょに何か活動ができたら、こんなにすばらしいことはない」という思い先行だった。立ち上げる前もわからないことだらけだったし、立ち上げてからもやっぱりわからないことだらけだった。

オープンから半年以上が経った。この場所で何を目指したいかという明確な目標を聞かれると「いやー、あんまり考えていないんですよね」と話してしまう自分がいる。

いや、あるにはある。このコミュニティをこうしたいというイメージは常に持っているし、そうありたいと思っている。ただそれは、コミュニティを提供する側の視点になってしまっていて、なんだかしっくりこない。僕がコミュニティで実現したいのは、それだけではない。

同時に、コミュニティを立ち上げて、驚かされたことがある。参加者みんなの思いやスタンスが微妙に異なり、かつそういったみんなが集まってチームとなることで、コミュニティの輪郭がどんどん出来上がってくることだ。

僕が想定もしていなかったような活動やアウトプットが生まれたし、それはコミュニティに集まってくれた多様な人が行動してくれたからこそ、実現した。

当然だ。コミュニティという場所の特性上、多様な人が集まる。活動するも、とどまるも、卒業するも自由。組織と比べるものでもないかもしれないが、より自由度や流動性が高いことは間違いない。

つまり、みんなが自立していて、その場を自分なりに楽しむ。そして、チームができれば、みんなが同じ方向に向かって進んでいく。ただし、関わり方は自由。むしろ、関わってくれるだけで嬉しいし、今いるみんなで最強のチームを作る。こういったスタンスが自然に生まれるといいと思っている。

あくまでも、僕のスタンスになってしまうのだが、コミュニティを立ち上げた人が答えを言うべきではないと思っている。さらに言うと、明確な答えを持っているわけでもない。やっぱり僕は1:nのコミュニティよりも、n:nのコミュニティの方がなんだかんだで楽しい。

みんなの目が、コミュニティを立ち上げた人に向いているよりも、コミュニティそのものに向き始めた方が、もっと楽しめる。

僕は今年は、コミュニティ内で自分自身が旗を立てて何かをするというよりも、みんなが「何かしたい!」と思った時にそれを全力で見守り、支援する側に回っている。それでも回り続けるコミュニティでありたい。


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藤村 能光
noteをお読みいただき、ありがとうございます。きっとどっかで、なにかしらのタイミングで、あなたとお会いしてお話ができると信じています。奇跡のタイミングを、信じ続けています。