名画を繰り返し観る理由、または何が2つを分けたのか
名画、と言っても絵画のことではありません。映画の話です。
既に観たことのある映画を観ていたときに、ふと思った。
新しい映画を観るよりも、好きな映画を繰り返し観たくなる時があるのはなぜなんだろう(それもできる限りテレビではなくて、小さいながらもスクリーンで)。
なぜでしょうね。
むろん、おなじみだからということがあるには違いない。少なくとも大きなはずれはない(ごくまれには、あれっと思うことがないわけではないけれど)。もう一度、同じような感銘を得る可能性は大きい(予定調和)。
もちろん同じジャンルの映画で、新しい試みがなされ、新鮮な感覚を与えるものがつくられているのは間違いないはずですが(これを観るのはとても楽しいことです)。
一方、それでもぼくにはそんなに時間がない(忙しい、暇がないということではなくて、ただ残された時間が少ないというだけですが)。駄作は困る気がする。若い頃は、駄作でもそれなりに得るものがあった(いまでもそうしたことがないとは言わないまでも)。かつて観て、面白かった映画は安心して観ることができる。ある種のノスタルジーもあって、冒険をしなくなってしまうのです(これが老いた証拠に違いないのですね)。
急いで付け加えるならば、それでも観るたびにたいてい新しい発見もあるのです(これは読書についても同じこと)。
で、今回は『シャーキーズ・マシーン』。
案外、刑事映画(ちょっとロマンスも入るが)の佳作と言っていい作品だと思うのだけれど(名作とまでは言わないまでも)、そうした評判は聞こえてきませんね。
ところで、この映画の監督・主演のバート・レイノルズとクリント・イーストウッドの差はどこでできたのだろう。監督作品は片や1本?片や多数、しかもイーストウッドは名監督の誉れ高い(僕は、けっこう好きでよく見るし、DVDも比較的たくさん持っている)。
一方、出自をはじめ、案外2人は共通点が多いようでもあります。アクションスター、比較的遅くになってスターとなった。しかもその時期はほぼ重なっていて、二人の共演映画もつくられた。そして、ジャズ好き(映画に使われた音楽を聴く限り、ということですが)。ま、これが人生?セ・ラ・ヴィ!こうしたことは、どこにでも見受けられること。
ちなみに、その前は久しぶりに『冒険者たち』を観た。さらにその前には、『男と女』。その前は『ソウル・キッチン』。何だかなあ(でも、やっぱり外れはない)。こうなると次は、トリュフォーの『アメリカの夜』か。映画はいったん観はじめたら次々に続けて観たくなるし、逆に何かの拍子に途切れたらさっぱり観なくなる(これまた、読書も同じ)。どうしてだろうね。
ま、どうでもいいことですが、僕の現在のところの三大フェイバリット映画、『男と女』、『冒険者たち』、『アメリカの夜』は、いずれも60年代後半から70年代初期にかけてのもの(しかもヒロインは、不思議なことに、いずれもフランス系の女優です)。
前の2つは高校生になるかならないかという頃なので、なぜ観たのかよくわからない。その頃の(というか今でも変わりませんが)僕は、村上春樹のようによく女の子とデートしていたわけではなく、それどころか極めて純朴な少年(!)だったのに。ほぼ同年代のUAの栗野宏文氏も『男と女』が好きらしい(『ブルータス』の映画特集かなんかで読んだことがある)。彼は都会育ちのようですが、僕は地方の田舎で育ったので、余計に不思議に思うのです。
観た時の年齢は少しずつ違うけれど、3つの映画にはジャンルをはじめとして共通点はありそうです。 ということは、(実際のところ)ちょっと遅いけど、三つ子の魂百までってことか( まいったな)。
でも、こういうことを書いていてもいいのだろうか、ちょっと心配(本当にいいのか?)。でもY氏もW氏も当分忙しいようだから、まいいか、な?(F)