社会化できない私

特別付録でついてきたコルビュジエのトートバッグを額装してみようと思い立ったのだった。

だけど、なかなかうまくいかない。

フレームを止めるネジを締めようとすると、なぜだかすぐに落ちて、その度に探しすのだけれどなかなか見つからない。何度も試しても、結果は同じ。同様の失敗を繰り返すばかり。全然だめ。簡単なことと思っていたのに。思いを形にするというのは、単純な思い付きを実践するだけでも、ことほど左様にむづかしい。

さて、先日のこと。卒業生が研究助手として戻ってきたので、親しいものだけで集まるささやかな酒席を設けた。そこで、「教員は政治的な行動が乏しい」という指摘を受けたのだ。一般的な物言いだったけれど、もちろん僕自身に向けられたものだったのに違いない。

ちょっと驚いたけれど、反論すべくも無い。たしかに、政治的な信条を形にすることが少ないのだ。というか、もともと政治とは距離を置こうとしていたし、学生に対しては、それに対する立場を表明することを意識して避けてきた。その理由はと言えば、いろいろと無いわけではないけれど、まずは学生の前では政治的には中立であるべきということがあった(これは、僕が学生の時に経験したことのせいであったし、先輩たちに聞かされてきたことでもあった)。そして、それがだめだという自覚も少なかった。

ただ、政治(というか政治的であること)にかかわらないことは、とりもなおさず自身の経験や思いを社会化しようとする気持ちが乏しいということだし、何よりも自身が社会的な存在であるよりも個人的な存在でありたいということに他ならない。そんなふうに言うこともできそうだ。でも、僕の場合はそれ以上に、たぶん、自身の想いを共有してほしいと宣言するだけの自信がないということなのだろう。

自身の思いを「社会化」しようとする積極的な「思い」こそが、新しいデザインの契機となり、重要な役割を果たしてきたことは、モリスらをはじめとする例を知らないわけでもないのだけれど。

ま、ぼんやり暮らしてきたことの証だと言えばまさしくそうであるということなのだ(寂しい気がしないわけでは、もちろんない)。それでも、それが分相応、僕の人生であると引き受けるよりないのだろう、と思う。(F)

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