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雨の日の羨望_桐原しぐれ_5
人と会話したのは久しぶりだな。
ずっと一人でぼーっとしているだけの日々だったので、自分の声すら久しぶりに聞いた気がした。その頃いつも食事はコンビニの軽食で済ませていたが、その日はもう少し誰かと関わりたい気持ちになって、夜はラーメン屋に入ってみた。ラーメン屋に来たからと言って特に店主や他の客と話ができるわけでもなかったが、人がにぎわうような場所に行きたかった。これには自分でも少し驚いた。
ずいぶん長い間脂っこいものは口にしていなかったので、胃がもたれて最後までは食べきれなかった。それでも満足だった。
次の日、また公園に行った。
昨日と同じくベンチに座って噴水を眺めていた。
昨日の彼に言われたことを思い出して、ふとバイオリンを弾いてみようかという気になった。ケースを開けて、ゆっくりとバイオリンを取り出す。懐かしい香りがした。弓に松脂を塗って、バイオリンを顎に当てる。チューニングを合わせて、深呼吸をした。
聴いている者は居ない。大丈夫。
そう思ってもう一度深呼吸をした後、スッと短く息を吸って弓を引いた。
バッハのシャコンヌ。高校生の時、よく一人で弾いていた曲だ。
弾き始めると無心になれた。目の前の噴水の音も、後ろでざわめいている木々の音も、どれも耳に入ってこなかった。何も思わなかった。何も考えなかった。
どれくらい弾いていたのかわからない。気付くとじんわりと汗をかいていた。
「なんだ、弾けるんじゃない」
突然の声に驚いて顔を上げると、すぐそばに昨日の彼が立っていた。
「あっあの…」
私はびっくりしたのと恥ずかしいのと、いろんな感情が混ざって混乱していた。彼は昨日と同じように笑っていた。
「ごめん。集中してるみたいだったから。声かけづらくて」
私の顔は多分赤くなっていたと思う。
「いつもここにいるの?」
下を向いている私に、彼は優しく続けた。私はもう一度顔を上げて彼の目を見て、少し落ち着いて笑った。
「うん。ここが気に入ったの」
「そっか。もう一回弾いてよ」
「今日はもうだめ。切れちゃったもん」
「何が?」
「……」
弾けない理由はうまく言えなかった。そもそも誰も聴いていないと思って弾き始めたのに、いつから聴かれていたんだろう。人に聴かせて恥ずかしくない演奏なんて、今はできない。ただでさえ、いつぶりに弾いたかわからないくらいなのに。
私が黙っていると、彼は昨日と同じようにベンチに腰かけた。私もバイオリンを丁寧に片づけて、昨日と同じように座った。