夢見る自由、堕落の権利
夢のない時代。今の日本はまさにそんな時代だ。
子供は夢を見るもの。それは今も昔も大差はないだろう。子供が夢を持てる社会を、それはいつの時代でも掲げられる目標だ。しかしそんな標語はもう聞き飽きた。考えてみれば、子供に夢を見させるのは簡単なことである。ひと握りの成功者をメディアが祭り上げ、こういう人になるにはどうしたらいいかという話題を広め、最後に誰にでも彼、彼女のようになれるチャンスはあると甘言をまぶせば完成である。さらに現代にはネットがある。これは大人子供に限らずだが、他人に与えられたものでなく、自分で辿り着いた情報に対して人間は過剰な信頼を寄せる。実際は知らず知らずにその情報にアクセスするように仕組まれていたとしても、だ。もちろんこのスローガンの真意が貧困対策、教育の強化にあることは私も理解はしているつもりだ。だが結果として夢を見せること自体が目標化している現状が目に余るようにも思える。
一方で大人が夢を見れる時代はいつ訪れるのだろうか。学校教育とは勝手なもので、義務教育やその延長線上の高校教育では、人はみんな特別な存在だとか、誰もが可能性の塊だとかいった言葉を流布し、夢を見させようとする。それが大学、そして社会に進んだ途端、協調や常識を自立と結びつけて、転換を図る。つまるところ、そろそろ現実を見て、つまらない夢は捨てて十把一絡の労働力になれ、と圧力をかけてくるのである。そして夢を見続けることを諦めない人間を社会不適合者や放蕩者、変人といって差別するのである。まったくおかしな話だ。自由だ、個性だ、オンリーワンだと喧騒しながら、社会に一歩出た途端、あとは分かるよな?とばかりの手のひら返し。子供時代に教えられた成功者は自分たちの延長にはいない。結局は彼ら彼女らが特別な存在だっただけで、いつまでも夢を追っていれば、あいつは大人になれない奴だ、と後ろ指を指される。
そして、その歪みを利用しようと企業も甘言を弄することを忘れない。我が社は社員を人材ではなく"人財"と呼びます。それは社員は材料などではなく、一人一人が会社にとって特別でかけがえのない財産だからです。そんな会社説明を何度も聞いたが、聞く度に虫唾が走った。彼らはなぜそんな言葉を発するのか。それは夢を見ることを諦めきれない人間を上手く操るためだ。そう言っておけば、その他大勢の労働者になりたくないと潜在的に思っている、いや洗脳されている人間は、ここならば自分を単なる労働力ではなく一人の人間として扱ってくれる、と勝手に思ってくれる。教育を逆手に取った素晴らしい手法じゃないか。まったく拍手を送りたい。しかしその実、彼らの言葉には、どんなに理不尽で非合理的でも会社のルールに従い会社に利益をもたらすのならば、という注釈が付いてくる。日本の最高学府である東京大学を卒業した官僚たちが、命令されれば矜恃も良心もかなぐり捨てて犯罪行為でも行なうところを見ると、どんなに教養を身につけても人間は教育で刷り込まれた選民思想を擽られると簡単に操ることができるようだ。穿った見方をすると、むしろ子供が夢を見られる社会とはそちら側の都合で生み出されているのではないか、とさえ思えてしまう。
夢を見ていいのは子供だけだ。子供の範疇にいるうちに成功へのレールに乗れ。それができないなら諦めろ。これが社会の本音である。別にそれはそれで構わないとは思う。しかし本音と建前を使い分けて理想的な生き方を唱えながら実態は型に嵌る生き方しか認めない、そんな二枚舌はなんとも浅ましい。もう言ってしまえ。大人になったらなら右に倣えで真面目に生きろ、と。その方が何倍もマシだ。だが今後も綺麗事を並べることを国は辞めないだろう。日本に本音をぶちまけるような、そんな勇気がある訳がないのだから。それなら私は夢を見てやる。馬鹿だと言われようと、愚かだと言われようと、死ぬまで夢を見続けてやる。