Track 08.『Dry Ice』/オオヤケアキヒロ
森の中に壁が数片残っているだけの、もはや廃墟とも言えないような空間にある地下室の隠し扉を降りた先に不思議な空間がある。
噂だとここはホテルだったらしいが、特に曰く付きという話を聞いたこともない。
しかし、今、僕が椅子に座っている地下室は何度来ても妙だ。
意外なほどに天井が高く、真ん中に長めの食卓が設置されたこの空間は、左の壁には古い書物が本棚がびっしり、反対側にはワインラックと食器棚が置かれ、奥にある暖炉の傍にはラッパ付きの古めかしい蓄音器が置かれ、前に敷かれた赤い絨毯も相まって
ささやかなダンスフロアのようだ。
きっと、経営者が家族や気心の知れた人達と歓談の時を過ごすための部屋だったのだろう。
ここを見つけてから、曰くが付いていないかを確かめるついでに何処かの酒の席だかで聞いた話によると、支配人は気鋭の若者だったらしいが、早々と挫折してこの洋館を閉じたそうだ。
たいそう美しい女性と連れ添いで才色兼備の素敵な連れ合いだったとも、山から降りる時は疲れた男一人だった、とも。
「誰かが死んだとか、帰ってこなかったとか、悪い話では無いんだけれど」
ある男は前置きをしつつ、こう助言を送った。
「あのホテル、聞いた話だとどうやら“ここじゃない何処か”に繋がっているらしいよ。人によっては哀しい顔で帰ってくるらしい。だから、あまり深入りしないよう気をつけて」
地下室は廃墟にありがちな浮浪者や不良少年といった不躾な来客に荒らされた痕跡もなかった。
外の廃れぶりから鑑みると恐ろしいほど清潔に保たれたこの部屋には、何だか冒し難い空気がいつも充満しているからだろう。
それは、何か少しでも触れたら猛り狂うような物々しさでは無く、ここを去った男の挫けた背中を思わせる空虚しさだった。
たまに天気が崩れると、水の流れる音が聞こえる。
それを頼りに外を歩くと、小さな泉があった。水溜りと呼んでもかまわないほど小さかったが、水質は清澄そのものだった。
男の身の丈から溢れ出して館に染み付いたであろう空気と言い伝えは、不思議と僕を少しだけ大胆にした。
安いワインストッパーと蝋燭台代わりのショットグラスを鞄に忍ばせ、仕事帰りなど物思いに耽りたい時にこの部屋に忍び込み、食器棚に入っている蝋燭、ついでにソムリエナイフを拝借して、テーブルに蝋燭と三つのワイングラスを並べてそれぞれに少しずつワインを空けて過ごすようになった。
イヤホンで音楽を聴いたり、紫煙を燻らせ、よく分からない蔵書のページを適当に捲る日々を過ごす日々に、必ず下座を選び、完全に日が登るまで一杯か二杯だけ、呑み終わったらストッパーで蓋をして、本をきちんと元あったところへ還し、グラスは近くの小さな泉で洗って棚に戻してからゴミを持って帰ると言う、細やかなテーブルマナーをせめてもの謝礼として添えて。
時々、一通りの片付けが終わった後、もう一度泉へ出向いて顔を洗った。
水面には見飽きるほど馴染んだ冴えない僕の顔だけで、特に面白いものは映らなかった。
もちろん毎日飲んでいた訳ではないが、一度開けたら三日かけてワインが一瓶空いた。
語る術を持ち合わせるほど飲み慣れていない僕にもわかるほど、そこにあったワインのコレクションは素晴らしかった。
冷んやりとした部屋自体がセラーの役目をしているお陰なのか劣化も進んでおらず、これを独り占めするのはバチが当たるだろう。
白もふくよかな香りを讃えながら切れ味が鋭いものばかりだったが、この静謐な空間にはやはり重めの少し冷えた赤がよく合うのだ。それこそ、陽光の下では野生動物の鉄分が多い血を思わせ、一度暗闇の中に沈んでしまえば一層見通しが効かない暗赤色と、ルビーの前駆体のような硬質さを感じさせるほどの冷たさが。
指先を使ってグラスの中で踊らせ、キスをする様に口に含んで口腔の体温を伝え、立ち登る酒精と芳香を鼻腔に送りながら、温まった赤黒い液体を舌の裏や歯間に溢れさせるのは、時としてキスの仕方が慎重になったり乱暴になったり気まぐれな所までが気障ったらしくて、何と無くサディスティックな儀式のように思えた。
ーところで、ワイングラスの一つは僕に、もう一つは嘗ての支配人に、残りのもう一つは、一体誰に?
今は居ない美しかったであろう二人へ向けてか、それとも此処ホテル・アザーサイドへの供えだろうか。
何にせよ、もう一つグラスが必要だ、と直感が僕に伝えていた。
それは正解だったのか間違いだったのかはわからないが、小さい蝋燭が10本燃え尽き、少しずつしか減らないワインの瓶が5本ほど空いた頃に新しい客が訪れるようになった。
暖かいような冷たいような、ぼんやりと発光する翡翠じみた長方体が現れたのだ。
決して部屋中を照らすほど煌々と輝いているわけではなく、それでいてまるで夜目が利くかのように古書の行を追うのが苦にならない、不思議な光だった。
もっとも、それが現れてからの僕は頁を捲るどころではなく、いつも通り3人分のワインを注いでからは紫煙を送り出しながらその光を見つめて、不思議と朝日が登る頃には消え失せるそれを見送って、後片付けをして謎を引きずりながら持ち帰る日々を送るようになった。
本当は、分かっていた。
あの光の中には誰かが眠っている。
腰ほどの高さで寝返りを打つには少し狭い程の小ぶりな寝台はどう考えたって棺だ。
昏いほどに眩い箱のなかで誰かが眠っていて、そして僕は目覚めを待っている。
誰が眠っているのかも、何となく予測がついていた。
果たして其の人は、去った主人を待っていたのか、それとも僕に逢いにきたのか、あとは確率の問題だった。
本当は、もう。
分かっていた、それが僕の待ち人であれば、とても僕には辛い事になるだろうことも。
地下室の中に泉へと至る地下水脈が流れる音が鮮明に聞こえ出したのは、春から夏にかけて雨が激しくなり出した頃だったと思う。
膿盆の上に横たわるガーゼのように夜の闇を吸った春霞と葉桜の間をすり抜けて、光の棺と向き合うようになってからと言うものの、ワインの減る速度が目に見えて落ちた。代わりに、ゆっくりと煙草を手で巻いて玉虫色のオイルライターで火を点ける回数が増えた。
巻紙から葉まで全てオーガニック素材の煙草は、たまに喫ってやらなければ途中で消えかねない程ゆっくりと燃える。事実、3本を吸う間に5回も火を点け直した。
何かを待つ時の煙草というのは上の空の気持ちと何ら変わりなく、殆ど肺に入っていない。水が流れる音を静聴し、当て所無い煙を送り、ワインを少し含んでおざなりに荒れて乾いた口を濯ぐのを繰り返して、翡翠の棺が開くのをじっと待っていた。
日に日に少しずつ光が透き通り始め、僕はその中心を注意深く見つめていた。
幾日もかけて徐々に、徐々に、横たわる影が鮮明さを得ていくのを見ていると、その正体を認めざるを得なかった。
嗚呼、やっぱり。細身ながら美しい曲線が。
ほら、やっぱり。長くしなやかな髪の毛が。
そら見たことか、美しいシルエットが明確になればなるほど、背中を悪寒が走っている。
“何故逃げなかったんだ?”
ワインを飲む様な席で中座をするなんて恥知らずな真似が出来るわけがないと知っているクセに、僕の何処かでよく見知った自分自身が吐き捨てるように痛罵する。
葡萄の酒は心を華やがせると言ったのは誰だったか、それは嘘ではなかった。
が、決して手放しで喜べるようなシロモノではないらしい。
それでも僕は訪れることを止められなかった。
此処に来て何日経っただろう、3日で一本のリズムが狂ったワインの本数ではもう正確に日付を数える事は出来ない。
もう茹るような暑さも鳴りを潜め始めた頃だ、今日で漸く10本目が空く。
テーブルの上座にワインを呈する時が最も一番光に近付く瞬間、いつも横目で翡翠の中の影をを伺っていた。
シルエットからは女性であることだけしか分からなかったが、姿を見るといつも、頭の中で言い聞かせるように押し付けた理解とは別の、空腹が締め付けられるような舌の裏から唾液が溢れるような、分泌腺が刺激される感覚を胸に感じていて、それを誤魔化すために煙草の本数が増えたというのが本当のところなのは、もう見透かされて居るかもしれない。
ー誰に?さあね、当ててごらん。
ただ、待った。
それしか僕には出来ることが無かったから。
ただただ、待った。
逃げても敗北の味が一層苦くなるだけだから。
蝋燭の箱はもう底が見え始めた。今日も煙が流れて行く。
コルクを抜いたワインは緩やかに衰えて行くだけ。最初の一口を惰性で弄んだら、もう味どころではなくなってしまう日々。
ただ光を待つ時間、頁も追わずただどう転ぶかわからない答えを待つ日々、食卓に背を向けて上座に座って棺と向き合うようになってから、テーブルマナーは失われてしまった。
紙で巻いて煙に撒いてもまだ鋭さを隠せぬまでにささくれ立った気持ちが、静謐の中を流れる水脈や扉の外から微かに聞こえる風の音に忙しなく反応する。
もう、イヤホンを刺しても誤魔化せやしない。
それでも冬の湖のような優しい翠の光はどこか心の温かさを保たせてくれていた。
今日までは。
棺はついに澄み切った。
中にいたのは、やはり君だ。
ついにこの日が来た。僕の心情を正直にいうなら、来てしまった、という方が正しい。
それなのに、足は縋るように光の方へ足を向かう。
棺を覗き込んで良い気分がしたことなど一度もないのは、別れを実感するからだろう。
例えそれが、今生きている人間の仮初の姿だと分かっていても。むしろ、尚更だ。
俺は一体、何を覗き込んでいるのだろう?
棺の中で瞼を閉じていたのは、もう今は違う道を歩く愛しい人。
明るい髪の毛先が豊かに波打っているのも、もう寒い朝だというのに濃紺のサマードレスから出ている肩の右鎖骨に刻まれているローマ数字も、初めて会ったあの時のまま。
まだ覚えている、初めて会った時の風が吹いたような、優しい波が体を打つような。
もっと言うなら、受精の瞬間、卵子を走る電流を思い出させるあの感覚。
記憶の残像と読んで差し支えないような余韻じみた弱いそれが僕の中で再生される。
それ以外の方法で、もう感じることはないだろうと思っていた。
再び君の姿を見ても、最早それは飽くまで圧縮された記憶の解像度がグッと上がるだけ。
そう言い聞かせていたのに、ああ、それなのに、またあの感覚が、あの時とは違って冷たく体を打つ。
膝から崩れ落ちて、頭の先まで溺れてしまいそうだ。
久しぶりに見た君の顔は相変わらず凛としていて美しい。皮肉なことに、一緒にいた時は彼女が魘されていた顔しか思い出されない。
棺の中には、餞の類が一切入っていない。
これは寂しい別れだろうか?いや、そうではない。
彼女は封じられていたのだ。何かしらの力が彼女を不可解な力の中に押し留めている。
それは何だろうか?
ー本当はわかっているくせに、と何処かで誰かが言った。
いつまでも横たわる彼女を眺めていたかった。
しかし、僕が今できるのは3つだけ、このまま何も変わらず眺め続けるか、謎と後悔に後ろ髪を引かれたまま立ち去るか、棺を暴くこと。ケリを付ける選択肢は二つだけで、何かが変わるのは一つだけだ。
棺に手を置いてみるとひんやりと冷たい。そしてどう見ても蓋と本体の番目が見当たらない。開けるには相当乱暴なやり方か、何か特別な方法が必要なようだ。
まるで呪いみたいな話だ。それが“マジナヒ”なのか“ノロヒ”なのか、どちらにせよ相当の覚悟を要するという事実を突きつけてくる。
どうすれば扉は開くのだろうか。そして、どうすれば彼女は目覚めるのだろうか。
彼女が自発的に眠りから醒めなければ意味がないし、それ以外の方法はないだろう。
再び誰かの気持ちを考えるなんて七面倒くさいことをしなければいけない。
俺はこの行為がずっと苦手だった。
正解は彼女のリアクションだけで、残念ながら今この場で答え合わせが出来る確率は絶望的だ。
「よう、久しぶり」
声をかけてみても当然目覚めはしない。
あれこれ近況の報告だとか、最近好きな音楽の話とか、訥々と話しかけてみるがまるでリアクションは無い。
当然だ、一歩引いてジャブ、前蹴り、ローキックで距離を探っているのと変わらない、壁のある虚しい会話。こんなことでは何も打開できないのは目に見えている。
今更何を言えるのだろう?
色んな感情を押し殺しながら喋るのはなかなか堪える。
そろそろ去るべきだな。そう思って椅子を立ち、最後にもう一度その姿を目に焼き付けるために棺に手をついて覗きこんだ。
蓋が開いていたらキスでもしていたかもしれない。焼き付けるつもりで覗き込んだのに、どこか空虚な気持ちのまま棺の前に佇んでいた。
自分の真下で不意に、テッ、と硬いものを液体が打つ音がした。
ふと見ると、黒い点が二つ三つ、棺の上に出来ていた。
雨漏りだろうか?と思って天井を見上げたが、続けて落ちてくる様子もない。
いやいや、地下室で雨漏り?そうそう考えにくい事だ。
もう一度斑点を見ると、またテテッ、と音が鳴ると同時に黒い模様が二つ増えた。
触って見ると、嫌な粘り気がある。触った指を見ようと掌を反転させると、棺の光を浴びて赤黒い照りが一瞬見えた途端、赤錆の匂い。血?何故?
鼻血かと思って棺に映る自分を初めて見た時、そこに見慣れた顔はなかった。
代わりに古びたブリキのバケツのようにひしゃげたフルフェイスの西洋甲冑が写っていて、瞠られた目以外に写っている姿が自分のものかどうかは一切伺えなかった。
その代わり、その目からはどうやらこいつは驚いているらしい事だけは手に取るようにわかるし、視界窓や首元からは血が沢山流れ出していた事から相当やられていることも見え透いている。何だ、これは?
見慣れない自分の姿を認識した瞬間、獣の体臭に鉄とアンモニアと塩素が混じったような、匂いの原因を想像したくない最低の匂いが鼻を突いた。もう一度、翡翠の塊に映る姿を確かめると、胸に根元まで深々と剣が刺さっているのが見えた。
その瞬間、僕の息は脱兎の如く肺へ逃げ帰った。
胸を触ったが、何も感触がない。その時ようやくまじまじと見た僕の手は、鋭く爪が伸びていて、体毛なのか鱗なのかよく分からないものにびっしりと覆われていた。
漸くその時、僕は人ならざる何かに成り果ててしまったことに気づいた。
死にたい、裁かれたいとずっと思っていたが、もうとっくに俺は地獄に落とされていたのだ。
そりゃそうだ、僕は君を守る男になろうとしていたのに、いつの間にか手放したのだ。
あまつさえ、“@&#$!”なんて言葉を口走ってしまった、ナイトが姫君にそんな言葉を使うなど、許されるわけはないのだから。
僕は何者かになろうとして甲冑に身を包んだ。そして約束は果たされぬまま、手にした力に溺れていたのだ。
使いこなせてもいないそれを自分自身を守る鎧として、そして剣として奮っていた。我が物にできなかったそれらはボコボコに歪んで、もう自分一人では外しようもなく、手の施しようがないほど深々と胸を抉っている。
残されたのは、騎士になろうとしたどうしようもなく醜くて弱い、瀕死のケダモノだけ。
独りよがりの戦いに姫君の出る幕など、きっと無かったに違いない。
覚悟はしていた。
覚悟はしていたが、軽薄さと空虚さは僕が持ち得る覚悟など取るに足りないほどヘヴィで、とても退屈で、耐え難く痛い。
ああ、誰かが囁く通り、来なければ良かった、知りたくなどなかった。引き摺る思いを終わらせたいと思っている癖に、都合が悪い現実を受け止めるしか方法がないと自分でもわかっているくせに、ほら、またどこかで後悔している。
もはや自分の変わり果てた姿にも驚けず、襲い来る誤魔化しようのない事実の激痛にのたうつ事も叶わず、僕の感情が、時間が、全て止まってしまった。鼓動だけが続いているが、もはやそれすら異物感がある。
棺から離れようと手を離した時、爪先から脳天まで雷にでも打たれたかのような錯覚と、全身に張り付く痛みを一気に書き換えるような鋭い激痛に襲われた。もう立ってなどいられなかった。
棺が写すあの姿が本当なら、いよいよ全身の血が抜けきってしまったのかもしれない。力なく膝から崩れ落ちる時の感覚、敗北感と甘やかな虚脱感に懐かしさを感じた。負けて楽になる事への安堵感は物凄く甘美だ。その甘さに俺は何だか安心しきっていた。
首だけが動く。棺の方を見ると、上品なピンクのハイヒールの足がぶら下がって、コツ、と音を立てて直立した。
「何も変わってない」
懐かしい声が響いた時、僕は意識を失った。
居心地の悪さで意識が目覚めた。全身の痛みはまだ残っていて、目を開きたくなかった。
背中で風の吹く音が聞こえる。どうやら、いつの間にかテーブルに就かされていた。
「ご機嫌麗しゅう。お目覚めかしら」
懐かしい声と、懐かしいセリフ。いつまでも寝ているわけにはいくまい。鼻から吐息と共に疼痛の呻きを誤魔化すように捨てながら、向き合うように姿勢を正す、牽制がわりに一言添えながら。
「君よりは寝ていないはずだ」
「減らず口を叩けるなら大丈夫ね。また聞けて嬉しいわ」
呼吸を整えて漸く取り戻した視界には、8月の夜に初めて会った時と寸分違わない女が座っていた。あの頃のままのサマードレス、あの頃と変わらない鎖骨のタトゥー、そして栗色のロングヘアーが毛先で丸くなるまでの緩やかな流れ。その中で気が強そうだが寂しそうな明るいカラーコンタクト入りの目と、八重歯が嬉しそうだがどこか意地悪に笑っていた。膝に手を置いてちょこんと上座に座っているその姿は相変わらず何をしていても絵になるし、暗闇だと言うのに手に取るように姿がわかるのは何故だろう。
「こんな素敵な場所、よく見つけたわね」
そう言うと目の前に置かれていたワイングラスの茎を薔薇かチューリップでもそうするかのように摘んで空にかざした。
「久しぶりに貴方の声を聞いたら、最後にもう一度話しておきたくなってね」
再びワインを胸元くらいの高さに下ろすと、俺の目を見据え直す。
「そのつもりだったんでしょ?だから、貴方が昔に望んだ通り、一度くらい一緒に飲みに来たのよ」
そう言うとすっとワインを掲げた。
一言精一杯の去勢を張ってから何と言えばいいのか分からなかったし、乾杯を受けるしかないのだろうと思った僕はそれを受けることにした。
痛みを無視しながら同じようにワイングラスを摘んで、すっと掲げる。さあ、エピローグの始まり。
彼女は特に躊躇もなく、細い鼻と上唇をグラスに収めるようにするりとワインを口にした。目は閉じて、飲み慣れた姿でワインをワインとして飲んでいた。その姿に見惚れていたが、彼女がグラスを飲み干すまでに僕も口をつけなければ、と思い、目線を外さずにグラスを傾けた。ワインの味わい方は知ってはいるが、どう見ても彼女の方が場馴れしていた。
このワインはどんな味だろう?目を閉じて舌と嗅覚に意識を注ぐ。
冷たい液体に体温が伝わる。重た目の辛口だが、少しだけ甘みがあって、香ばしい香りの中に果物の味もする。飲み下して鼻から息を抜くと、ほんのりと花の香りがした。美しい女性と飲むには、悪くない。
グラスを置いて瞼を開くと、部屋には優しい灯が満ちていた。蓄音機からも耳に触らないように音楽が流れている。単音のピアノが正しく置かれるように紡がれるこの音はマイケル・ナイマンのようだが、ドラムの音が聞こえると言うことはそうではないようだ。
「ワインのお代わりはいかがですか?」
声の方を見上げると男が立っていた。すらりと身長が高く、綺麗に剃り上げられた坊主頭と強面が相まって威圧感があったが、屈託のない無邪気な笑顔は人懐っこさに満ちていた。ウェイターにしてはデニムに黒のシャツを袖捲りといささかラフだったが、特に浮いているわけでもないし、何より優しくて力強い声が心地よかった。
「ありがとうございます、頂きます・・・いいワインですね」
「そうでしょう?お気に召し頂き光栄です。せっかくの晴れの日だ、美味しいワインじゃなきゃね」
朗らかな言葉とワインをグラスの半分に満ちるか満たないか、気前よく、しかし下品にならない程度に振る舞ってくれるこの男のおかげで、塞いだ気持ちと背筋に張り付く緊張が少しほぐれた。
「この部屋は当ホテルの主人が個人的なお客様やお友達をお持て成しするために作られた部屋です。本日は新婦様たってのご希望で、結婚の前日に親しいお友達と最後にお話をしたいと言うことですのでお使いいただいております。時々、お客様にお出しするワインを取りに出入りしたり、打ち合わせにこの部屋の隅っこを使わせていただくこともあるかと思いますが、何卒お許しを」
男は部屋の説明を終えると、自分も楽しいよ、と言うふうに上座を見上げた。
そこには見慣れた女が、まるで百合と白薔薇が気高く華やかに咲き誇り、健気で清廉潔白なクローバーが敷き詰められたようなレースのウェディングドレスに身を包んでいた。
どこまでも芳しく、どこまでも美しく、それゆえに俺の心を強く打った。香りを嗅いだとき、もう今日で何回目か分からないけれども、はっきりと記憶に残るほどに息を呑んだ。
「大変お綺麗な花嫁様ですねえ、お友達として誇らしいでしょう?我々もこのような素晴らしい機会に立ち合わせていただき、光栄の極みです。それでは、ワインはこちらに置かせて頂きますので、ごゆっくり」
ワインの瓶を置いてお辞儀をした。僕たちは会釈を返した。かつてベビーフェイス・プラネッツでそうしたように。
もう一度にこりと笑って、男は去っていった。
「結婚したのか」
最後の会話はストレートに始めよう。
「本当は気づいている癖に」
少し興醒めしたように、彼女はまたワインを一口舐めるように口に含んだ。
「貴方がそう望んでいるからよ。もう気づいてるんでしょう?私の正体を」
「何となく、だけどな」
僕はワインを揺らしていた。美味い、確かに手が止まらなくなるくらい美味いワインだが、どうも進まない。
「野暮なことは解っているよ、恥を忍んで、答え合わせがしたいんだ、君の口から聞かせてくれないか。その前に、一本巻かせてくれ・・・これも野暮なのは分かってるけど」
テーブルに置きっぱなしだった、ロッキージェリービーンのイラストが描かれたRAWの煙草ポーチは、彼女が去ってから買ったものだった。
「相変わらず、盗んで行きたいくらい可愛いセンスしてるわね」
「どうも。もう煙草は止めたの?」
「答え合わせはそこから始めましょうか、ええ、そう、私は煙草は止めたの」
サテンのグローブに包まれた手を肘について、掌を組みながら彼女は続けた。
嘗てそうしたように、俺をその手で抱きしめて欲しい衝動に駆られた。
「そうだったよな、言ってたよな、子供のためだって」
「そう言うこと。煙草を止めたのも、今こうやって花嫁姿で貴方と話しているのも、答えはもう知っている筈よ」
組まれたの奥の瞳は笑っても怒ってもいない、ただまっすぐ俺を見据えていた。
「ここからは自分で言えるかしら?」
「・・・ああ、今話している君は“僕の中で殺し切れない君”だからだろ」
ほんの少しだけ、彼女の目が少し明るく輝いた気がする。正解なのだろう。
「それがわかっていて安心したわ。でもちょっと安心したわ、酷い姿にされていなくて」
「あの時みたいに惨めな姿で帰って来たり、か?」
「バラバラにされてドラム缶の中に入っていたり、この部屋の天井で首を攣らされているなんて事も考えてたわ」
「まあ、無いわけではなかったよ、正直ね」
「そう言う選択肢があったのも知ってるわ。だから言ったのよ」
くすくすと白い歯を見せながら小馬鹿にしたように笑う。
「自分で一番知っているじゃない、貴方の中の私だって。私がこの格好で居ることに一番安心しているのは貴方だってことも、全ェン部お見通しなのよ」
恥ずかしいような、とても不味い手を打ってしまったような、冷たい汗が出そうな感覚を感じて、漸く僕は二杯目のワインに手を付けた。
「そうだな、殺したいほど恨んだし、今でもどこかで痛い目見やがれって思ってるよ」
「“惨めに終わりやがれ、ビッチ!”でしょ。聞こえてたわよ」
バツが悪い最後の晩餐で都合が悪いことが続きすぎていた。それは巻いた煙草に火をつけるのを忘れるほどだった。咄嗟に思い出して、火をつけた。陶製の白い小さな灰皿を引き寄せた。
「最後に会おうとした時もそうやって上から、まるで私のことを思って言ってやってるんだって感じで言ったわよね」
「やっぱり根に持ってるよな」
「私は知らないわよ、本人に直接聞いたら?」
「ほら、怒ってるじゃないか」
「私はもうそんなことどうだっていいのよ。でも、その事で聞きたいことがあったの」
本人に直接聞けよ、と言った時は馬鹿話のように軽く胸を反らせて笑っていたが、また手を机の上で組んで少し前のめりにまた僕の目を見据えた。美しさが凄味に変わっていた。
僕はもう目を逸らせてしまいたかった。いや、席を立って走り去ってしまいたかった。そうする代わりに煙草を胸いっぱい吸い込んだ。
「あの時の事を後悔してるのも知ってる。でも、何を後悔しているのか知りたいの。私が去った事?傷付けたこと?」
「その両方とも、だ。君のやり方に疑問を持っているほどには。どちらか、じゃない」
濾過されていない紫煙の濃厚なニコチンが幾分かの冷静さを保ってくれているが、答えは反射的に飛び出た。
「意地悪な言い方をしたのは御免なさい。正直に言ってよ、今、どんな気持ちなの?何を思っているの?」
僕が何となくまだ躊躇を捨て切れないままこのホテルに来た時、彼女はとうに腹を括って居たのだろう、美しい目が据わっているのを見た時、もうほとんど言葉という骨格をまだ得ていない、吐き出したくて仕方ない気持ちが溢れ出してはち切れそうだったが、それがトラウマを呼び起こし頭の中で軋轢を起こしている。
ああ、だめだ、伝えたい事が沢山溢れ出して、それが依るべき然るべき言葉が追いつかない。勢いに任せて醜い言葉を突きつけてしまいそうだ。
それにしても、今更どうしてこんなに暗い気持ちが煮えたぎるのだろう?
その時にやっと気付いた。ああ、まだ何も終わっていなかったのだ、少なくとも僕の中では。
自分にすら終わったんだと言い放って無視し続けていた事すら忘れたフリをしていただけなのだろうな。
再び体がずしりと重くなり、サイアクな匂いと共に痛みが立ち上ってくる。
また僕はあの騎士になり損なったケダモノの姿をしているのだろうか、いや、紛れもなくあれは僕なのだから、目の前の美しいモノを辱めて、いっその事もう一度俺自身も汚辱に落ちてもう帰って来れないような、今の姿に相応しい幕切れにしてやろうか?
もう何度繰り返したか解らないように、もう一度、全て壊して終わりにしてしまおうか?
どうせ何も変わりはしない。全てが僕の中で完結しているだけなのだから、別にいいのではないだろうか。少し気持ち良くなって終わるか、カッコつけて耐えて終わりか、ただ汚れるだけなら、後味が良い方にしてしまえよ。得意技だろう?
だけど、どれだけ無視しても喧しい声が聞こえる。上手くいかなかったみっともない過去がこう諭すんだ。
“”おい、今度はちゃんとやれよ!お前がしっかりしないと、また彼女もお前も虚しく終わるだけだぞ、同じこと何回も繰り返すなよ!リベンジマッチは得意だろ、お前?”
ああそうだ、全くその通りだ。今度だけはちゃんと伝えよう、上手くやるんじゃない、正直に、でも、独りよがりにならないよう。
どうしようもなくダサかったお前の言葉が今だけは正しいこと、それだけはわかる。
少なくとも、俺は悲劇を繰り返さないためにここに来たはずだ。
それに、もう彼女が僕と一緒にいる訳ではないように、もう“僕”も誰かと寄り添う訳じゃない。“己”として、“俺”として、普段通りの言葉を使おう。
「一個だけ、俺の中でどれだけブレても、こうしようと決めていた事があるんだ。あの頃、もう終わりだろうな、と思ってから、無理矢理会いに行こうとした日も、最後にお互い一方通行のお別れを言った日でも。どれだけ憎んでも、君と話す時は絶対に忘れなかったことが、一つだけある。それは恐らく君の聞きたい答えじゃないとも思うけれど」
顔を見ず、俯きがちに話すのは俺の悪い癖だ。
しかしそれをちっとも恥じちゃいない、正しい言葉を探しながら、最適解を探しながら俺はいつでも話しているから。
あの日からはもう決めたんだ、傷が痛もうが、旗色が悪かろうが、俺は俺のやり方で勝ちに徹する事を。
さあ、顔を上げるときだ。
「どんな結果になっても、俺は君を幸せにできる方法を考えてる。もう道が分かれた今でも。これだけは言っておきたいんだ、君と、そして、俺自身も認識できない所にどんな感情や思惑があるのかなんて分からないんだけど、君を幸せにしてやるとかそんな気持ちじゃないんだ。君が喜んでくれる事が俺の喜びだったから、ただそれだけだ。だから、あの時、燻って歪んでいた何かを変えようと思って・・・いや、苦しい胸の内から逃げ出したかったのが本音かもしれない、君を傷つけてしまった事を後悔している」
毛並みの逆立つ感触が肌の上から失せていく。
ようやく力に溺れた手合いの獣から、メランコリにも酒にも酔えない弱々しい男に戻っていく。
果たしてどっちがマシに見えるだろうか?それでも、俺は受け入れるしかない。
「それでも、俺はこの結末も君に出会えた事も・・・少なくとも今は後悔していない。だからこそ、俺はそろそろ君を手放さなければいけないんだ、俺の中にいる君を。だって、それは本当の君じゃないから。俺の中でいつまでも美しい、ある時はひどく意地悪で醜い君も、俺がそうあって欲しいと思っているだけなんだ。一緒にいる時からいつしか俺は君じゃなくて、俺の中にいる君をずっと見ていたんだろう。お互い一方的なさよならを言ったあの日、俺はまだそれを捨てられなかったんだ、今日までね」
俺は顔を上げた。
目の前の花嫁は何処にも行かない偽り、此処はただ留まるだけの宴、何処へと向かう訳でもなく、帰る場所にしてはあまりに出来すぎていて、暖かさはあまりにも居心地が悪い。
さあ、帰ろう、元いた場所へ。
君と会ったラブホテルが見えるだだっ広いパチンコ屋の駐車場、駆け引きと想いの醜悪な闘争じみた恋に負けた独りの部屋、存在の一部を失った喪失感を引きずる生活、それら全てを保証のない幸福へと転化させるための苦痛の日々、そんなものがついて回るロクでもない生の流れへ。
「いつの間にか俺たちの愛・・・いや、俺の愛は呪いに変わってしまった。それは君を縛っていたし、今こうやって俺に返って来ているんだ。無かったことには絶対にならないが、それでも解かないことには俺も君も幸せにはなれない。君と俺は似ているんだ、君に歌った歌の通りに。だから、俺は確かにこの胸にある痛みを失うかもしれない今日という日が来ることすら恐れていた。それが間違っている事は分かっていたのに。でも、だからこそ、今日で終わりだ。いつまでも愛している事と、この痛みだけが真実なんだ。これ以上嘘の中では生きていけないよ」
突然、あの日初めて君に会った時のような風が吹いた。
景色全てが白く輝いた。まるで融けていくドライアイスのように。
そして、あの古い地下室にまた二人。
女はまるで洒落にならない悪戯をした子供を見据える母親のような、怒りと悲しみが入り混じった眼差しをこちらに向けていた。
「確かに私の望んだ答えでは無かったわね」
「嘘は吐いていない筈だよ」
「素直な感情を吐き出した方が楽になれた筈よ?」
「勝負ってのは最善を尽くすことだけが大事なのさ。本当の負け犬ってのは自棄になって全て捨ててしまう、負けすら受け入れられない奴の事だ。あの時の俺みたいにね」
「相変わらずカッコつけてるわね。でも、そういう所、嫌いじゃなかった」
「その方が俺っぽいだろ?」
あの時みたいにやっと会話が繋がった時、漸く俺も彼女も少し笑えた。
漸く赦された気がした。そしてそれはお開きを意味していた。
「さあ、そろそろ行かないと。ちょっと疲れたから、俺はもう少し休んでから行くよ」
「・・・本当にいいの?」
「いいとか悪いとかじゃないだろ。さあ、グラスを空にしよう」
どちらからともなくグラスの茎を摘んで、唇に縁を当てて傾けて、テーブルに置いた。
グラスを置いたあと、彼女は立ち上がって俺の方に歩み寄った。
「・・・最後にキス、しようか?」
顔は真剣そのものだった。それはきっと、別れの挨拶だからだろう。
「俺たちはキスはしてない筈だぜ。最後じゃなくて最初なんだ。それに、もう辞めたんだ、自分の都合がいいように動くのは」
体の痛みを誤魔化すように、驕った風に戯けて姿勢を崩して顔を見上げた。寂しそうな顔が見えたから、俺は右手を差し出した。
「だから、本当に俺たちがやったことで締めくくろう」
呆れるように鼻から笑いとも溜息とも取れる音が漏れた
「ホント、カッコいいわね」
握り返した手は優しく柔らかかった。どちらともなく握手が緩み、その手はお互いの顔の横をすり抜けていく。
君は無邪気に俺の鼓動を聞くように顔を胸に当て、俺の背中を撫でる。
俺の右手は、タトゥーのある君の右肩の上で硬く握られ、左手で心臓の裏を叩く。
少し普通より親しい友達として、そうしたように。
そして、俺たちはそれで、そこで終わる。
「今度こそ本当にお別れね」
「ああ、そうであることを祈っている」
「さようなら」
「さようなら、幸せで」
彼女は僕を通り過ぎた。
振り向くまいと思ったが、見送るべきだと思って立ち上がり振り向いた。
扉を開けた途端、明るい光が暗い地下室に差し込んだ。
その刹那、また部屋が白く眩く、冷気と共に広がる。
光の中で影はこちらを振り返っただろうか、もはやどうでも良かった。
そこにはもう、涙も後悔も届かないし、もう必要無い。
そしてまた部屋は暗くなったが、夜明け前の柔らかい光が扉から覗いていた。
導かれるように外へ出た。
もうここに来ることはないだろうか、いや、あるかもしれないし、彼女の事が恋しくなることがあるかもしれない。
それでも、もうここには何もない。次ここに来たら、帰れる保証も自信もない。
俺が生きている世界は、彼女と出会い、愛し、憎み、別れたこの世界なのだから。
また交わる可能性はほとんどあり得ないが、俺たちは生きるために出会って、生きるために別れたのだ。
であれば、俺だって何を失おうが、どれほど痛もうが生きていかなければいけない。
さあ、もう他人、もしかしたら敵になってしまった彼女が生きているはずの世界に俺も帰ろう。
片付けが終わった。森を包む朝霧の中で深呼吸して、最後にもう一度泉で顔を洗った。
泉はワインか血膿で少しばかり汚れた。
その中に映る俺の顔は相変わらず不甲斐ないが、憑き物が取れたようにスッキリしていた。
もう来ることはないが、泉もまたその内澄み渡るだろう。
俺は車に乗り込んだ。
カーステレオからは何処かで聴いたピアノと声が流れ出した。
独りになってから覚えた歌だ。
時間は流れて、火は消えるが、氷も融けていく。
立ち昇る冷気を見送るのも、たまには良いかもしれない。
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