「アートに勝負論はあるかないか」/オオヤケアキヒロ
折角のエッセイの場なので、というよりは小説に於いても本当はもっとカジュアルでユーモアがある事を書きたい。何せ僕自身がハードボイルドな人間ではないので、常にシリアスぶった事ばかり書いていても嘘っぽい気がするからだ。
しかし、有難いことにそうも言っていられない状況が続いている。題材探しも兼ねて聴いている音楽も、魂を削った真摯な作品に触れるとやはり熱量と真剣さが伝わる物が素晴らしいし、僕程度のキャリアと実力ではまだまだ置きに行ったような文章に味は出ないからだ。
初期衝動やシリアスさを感じるものが大好きだし、それこそが尊いものだと信じて疑わないが、勢いや熱さを様式美にしてしまいたくないのも事実だ。全力疾走だけが真剣ではないし、それこそずっとそれを前面に出していると胡散臭くなる。それに、やりたい事ばかりやっていても技量の向上が無くなる。そう思いながらも、何せ一発目に大好きなBad Brainsを題材にして箸にも棒にもかからない文章を書いてしまった事も含め、遅いスタートなので少なくとも今暫くは持てる力を出し切るしかないと感じている。
とはいえ、毎回作品ごとにテーマを持って意味があるものにしようと試みて、それなりに手応えは感じているので、引き続き頑張っていく所存でございます。
書くこともそうだが、人間生きていると何事もスクラップ&ビルドで、失ってはまた練り上げて、の繰り返しだ。アップデートには常にインプットとアウトプットが必要になる。
とは言え、読んでいただいている方には同じく作家志望の方もいらっしゃると思うのだが、一旦社会に出るとなかなかインプットすらが難しくなってくる。かなり上手にやらないとゆっくり本も読んでいられないし、肝心のアウトプットすらが締め切り間際にヒーヒー言いながら文を絞り出すような事もある。実際の所、僕は今、読書や映画と言ったインプットに割ける時間と体力が圧倒的に不足している。純粋に日銭のために時間が犠牲になること自体が癪だが、自分が器用にやらなければいけない部分もかなり大きいので、その辺りも作家志望としては必要になる事だと思う。作家と言う職業・ライフスタイルの所作を考えた場合、インプットはスポーツに於ける練習や準備期間だと思う。ここの効率と質をいかに上げることができるか、がカギなのだろう。何事も経験がモノを言う絶対的な法則に従って我武者羅に数をこなすのも実際大事だと思うが、今の時代はそう言う精神鍛錬ですらが理論と効率を求められている。
理論と効率とはそれこそ知識の吸収と咀嚼から来る応用が必須なので、それなりの知識と意思が求められる。どれだけしんどい思いをしてもそれが結果に結びつかなければ意味がない。作用を満足度の犠牲にしてはならないのである。
僕は格闘技が好きで、今でもエンジョイ勢として見るのもやるのもダラダラと続けているが、哲学やライフスタイルにも根差す文化であり、僕自身も物事の判断基準に武道的な価値観を用いる事がままある。
武道として最低限必要なのは負けない事である。ランニングや筋トレと言ったフィジカルトレーニングはスポーツ・競技的な間違いなく大事な事だが、体力・体格で数値や視覚で確認できる結果が得やすく爽快感や満足度も高いので何かを成し遂げた気分になりがちで、そこに罠がある。極論を言えばどれだけ肉体的に強くなってもビンタ一発で自失するようでは全く意味がないと思っている(素手でどれだけ強くても刺されたら終わり、と言う話もよくされますが、それはまたの機会に)。
強さとは相対的価値観なので、外的脅威に対処出来ない自己満足的な成長を強さとするのは疑問というか錯覚と言い切って良い程に危険な事ではないだろうか。意地の悪い事を言えば、芸術や表現活動で言うと技術はあるが何も伝わってこないと言う感覚がそれに近しいと感じている。少なくとも私はアートの名の下に自慰じみた振る舞いをする奴らの作品に時間と金は割きたくない。
もちろんコミュニティに属して趣味程度に楽しくやるのは私がどうこう言う余地が無いくらい良いことだし、評論のイロハも知らない癖に難癖ばかりつけたがる所謂エセ評論家も筋道に外れているのは事実だ。だかそもそも作品を発表する事はそう言うリスクがある行為で、実はお友達にも陰で何を言われているかなんて分かりゃしない。権利や道徳は尊重されるべきだが、それ自体には直接的な悪意を防ぐ力はないので、少なくとも私はもっと鑑賞と外からの力に耐え得る強度を作品に持たせたい。
アート全体に言えることとして受け取ってもらう事で漸く始まる事なので、誰が何をしようと自由だしスタンスとしては
「聞いて下さい」
でも
「聞けや」
でも一向に構わないのだが、表現活動は一つの勝負事だと思っている。書きたいことは当然書くが、自分らしさと精錬の放棄は別物なので、批評に耳を傾けたいと思う。勝負事であれば強さにこだわるべきだから、奢りも謙りも無く勝ちと負けの両方から学んで行きたいと思う。
強さと言えば、総合格闘家の岡見勇信氏が最近Abemaの格闘技リアリティショーで、オーディションに向けた調整が明らかに足りていない参加者に対して放たれた
「覚悟なんて簡単に裏切るからね」
と言う言葉がとても突き刺さった。
此処からはオタクの領域になるが、日本のMMAに於いて堀口恭司と1、2を争う戦績と練度を持つ、総合格闘技のメジャーリーグと言って良いUFCでアジア人には体格的に不利と言われる中量級を勝ち続けたこの男が、磐石の試合運びをしながら最後の最後で一発をもらって勝てた試合を不意にする場面を見たし、絶対王者アンデウソン・シウバに心が折られたような負け方をしたのも見たので、その言葉は物凄い強度と鋭さを持っていた。
年齢のせいかダメージの蓄積か打たれ弱くなった印象があるが、それでもキツい練習をして、持ちうる武器を拾い集めて研ぎ澄ませ、岡見勇信と言う男は勝ちに徹する。青木真也の受け売りになるが、プロ格闘技は勝負を通してリングの上で表現をする職業だと思っている。繰り返しになるが、それは表現をするなら音楽やろうが小説書こうが同じことだと思うので、僕は勝負だと思って文を書き、自分自身の不足と充実を冷静に見極め、日々何かを拾い集め研ぎ澄ませる事にもっと尽力したい。
タイトルは適当に後から考えたが、皆違って皆良いも事実だし、一方で適当にやっている奴らに負けたくないという気持ちもある。そんなことをぼんやりと考えているうちに竹原ピストルの“カウント10"と言う曲を思い出した。
俺はやっぱ勝ち負け誤魔化したくないなー。
ところで、もう結構付き合いの長くなった友達がブロガーとして頑張っています。
そんな彼女が我々浮遊体の活動に呼応する記事を書いてくれたので、紹介させていただきたいと思います。
我々の作品に触れて自分も出来る、自分もやりたいと思って頂ける事は嬉しい限りです。
生きていれば色んな事があって腐ったり立てなくなることは多々あります。ちゃんこ氏も長い間傍らで見聞きさせてもらっているだけでも大きな葛藤や挫折があって、それがあるから今表現活動をされているのだと思います。
つまり、彼女は彼女の勝負をしている。そう言う人が呼応してくれたことが素直に嬉しかった。彼女のブログで紹介してもらったお礼も兼ねての紹介になりますが、僕はちゃんこ氏のやっていることが好きです。虫田くんとの二人でやっている今から始まり、高め合える関係が増えると良いな。
浮遊体は何かを表現したい人に開かれた場所でありたいと思っています。
それは挑戦、再出発、復讐、何でも構いません。
何かやらかしたい人に切欠と成長の場所として魅力があるよう、一同邁進して参ります。
近々、何かアクションを起こすのでお楽しみに!