教育とは何か

この記事は2021-11-25 05:00:06の移載

本当は土曜日にブログを書こうと思っていた。

近況の中で感じたことを、極めていつものように。
温めていた卒業のことや、今、感じることを。

しかし、衝撃的なニュースが飛び込んできた。
愛知県弥富市の市立中学校で起きた、事件。

中3男子生徒死亡 逮捕の生徒 包丁を事前に購入し持ち込みか | NHKニュース【NHK】24日朝、愛知県弥富市の中学校で14歳の3年生の男子生徒が同学年の男子生徒に包丁で刺され死亡した事件で、殺人未遂の疑いで…

is.gd

出勤前にこのニュースの速報に触れ、どうか助かってほしいと祈りながら出勤した。
そして夕方の休憩の時、またも速報に触れ、その祈りが届かなかったことを知った。

退勤して、詳細な報道を見た。感じたこと、考えたことを忘れないために、ここに記す。


日常の儚さ

僕は、塾で勤めている。
被害者や加害者と同じ、中学3年生とも毎日顔を合わせている。
何気ない会話をしたり、勉強を教えたり、時に叱咤し、激励し、日々を過ごしている。
きっと被害者にも、加害者にも、事件に立ち会った
者たちにも、同じような日常があった。

「こんにちは」「さようなら」「行ってきます」
「ただいま」「ありがとう」「ごめんなさい」

いろんなフレーズが飛び交い、ご飯を食べ、風呂に入り、寝床に就く。
朝起きて、学校に行ったり、塾に行ったり、いろんな人と他愛もない会話をしたりしただろう。
卒業まで4ヶ月弱、入試を経て、それまでにいろんな葛藤の中で進む路を決めただろう。
そして悲喜交々を乗り越え、新生活に多少なりとも胸を躍らせ、新たな日常を歩んだだろう。


その日常は唐突に、変わってしまった。

いつも過ごしていた学校は、級友が級友を殺めた場所になった。
いつも登下校していた校門には、多くのマスコミや警察官がいた。
いつものように帰宅しても、受けた衝撃はうまく消化できないかもしれない。
いつものように登校しても、受けた衝撃が突如として蘇るかもしれない。

そして、いつものように「また明日」。
そう言いたくても言えない、級友がいる。


果たして、教育とは何か。
加害者は何の出来事から、何を感じ、この選択をしたのか。この選択は、最悪だ。

人が、人を、殺めた。
未来ある人が、未来ある人を、殺めた。

しかし、加害者にとってはその選択しかなかったのかもしれない。

この最悪の選択肢以外の選択肢を、教育が提示できていなかったのだ。
教育がこの選択をさせてしまったのかもしれない。

2001年に起きた、大阪教育大附属池田小事件。
凄惨な事件だった。
以降、「命を守る」教育が進んできた。
不審者の侵入を防ぎ、どう命を守るか考えてきた。

2004年に起きた、奈良市女児誘拐殺人事件。
不審者の存在を察知し、地域ぐるみで、どうすればみんなの命が守られるか、考えてきた。
特に、一条高校に進学した私は、奈良市主催の「子供安全の日の集い」でもプレゼンし、そのことを考えていた。

その時も、今までも。「命を奪わない」教育については、ほとんど目を向けていなかった。


誰も、加害者の異変を察知できていなかったのだろう。しかし、きっと、小さなシグナルはあったと私は考える。
包丁を事前に用意し、明確な殺意を持って、事に至るまでにあった、小さなシグナルが。

それはほんの些細なことだったかもしれない。
いつもより、ほんの少しだけ、あいさつの声が小さかっただけかもしれない。
いつもより、ほんの少しだけ、物を粗雑に扱っただけかもしれない。
「いつもより、ほんの少しだけ」それくらいの、些細なこと。

そんな些細なことでも、加害者は、誰かに伝えようとしていたのかもしれない。
無意識的に、誰かに気づいてほしかったのかもしれない。
誰かに、止めてほしかった、
誰かに、救ってほしかったのかもしれない。

そんな誰かに、誰もなれなかった。
学校の職員も、保護者も、地域の人も。
加害者に関わる全ての人が、なれなかった。

確かに機微な変化を読み取ることは難しい。

しかし、それでも悔しい。
あの時、誰かが気づいていれば。
あの時、誰かが声をかけていれば。
「あの時、」人生は、あの時の連続だ。

これは、愛知県弥富市で起きたことであって、
私には関係のないことかもしれない。
しかし、私のそばには、ずっと「教育」がある。
生まれてから今まで、ずっと。
そしてそれは、しばらく続くだろう。


私は、奈良市立一条高校にいた、あの時、教育社会学を志した。

「子どもが大人を見て『早く大人になりたい』と
思える社会をつくりたい」

そう感じてあの時、社会学部に進んで教育社会学を専攻した。あの時、師や仲間にも出会った。
「教育社会学を深め、今の仕事でも活かしたい」
そう感じて、今、周囲の理解とお支えをいただきながら、社会人学生として大学院進学を目指している。

もし今、私の周りにいる子どもたちが、同じ状況にあったとすれば?
私は何ができるだろうか。何ができているだろうか。何もできていないのではないか。
小さなシグナルに、気付けているだろうか。
小さなシグナルに、声をかけられているだろうか。

改めて、考える。子どもたちといる間、考え続けて、試行錯誤せねばならない。
そして行動に起こし、改善せねばならない。
誰かを傷つけたり、取り返しのないことをしたり
してからでは遅いのだ。
一番嫌なのは、事が起こってから「そういえばあの時……」と感じることだ。
これは私の最高で最強の、ポンコツでライバルの相棒も言っていた。

本当にその通りだ。

私は、小さなシグナルに気づける人でありたい。
そのために、日々を歩んでいく。
これを書いている今も、目が覚めてからも、これからも、ずっと。
もっと多くの知識を習得し、経験を積んで、でも驕り高ぶることなく、様々なことに気づける人であるために。
そのために、日々を歩んでいく。


私にはもう一つ、いや二つ、気になっていることがある。


少年法について

少年法は刑法と違って、少年の更生を願うという趣旨がある。
だから、捜査機関から刑事裁判所へ送致されるのではなく、全件が家庭裁判所へ送致される。
そして、家庭裁判所が少年の成育環境や性格を調査し、少年院送致や保護観察の手続きをとる。

今回の事件は殺人であるから、恐らく家庭裁判所が「刑事裁判を受けるべき」として、検察へ送致する「逆送」の手続きがとられる可能性が高いのではないか。
その場合は、成年と同じように刑事裁判(裁判員裁判)が行われ、有罪であれば16歳までは少年院、
以降は少年刑務所で服役することになるだろう。

少年が重大犯罪を起こす度、少年法の厳罰化が
叫ばれ過去5回、改正(厳罰化)が行われた。直近では2021年5月に「特定少年」の定義を設けた改正少年法が国会を通過し、2022年4月1日から施行される。

福祉的・教育的な側面がある少年法は、賛否が分かれる。例え、被害者遺族が極刑を望んでいても、少年法はそれを許していない。
仮に私がその立場になっても、極刑を望むだろう。

それでも、私は、少年法の厳罰化には反対だ。
犯罪を犯した少年に必要なものは、厳罰ではなく、ケアだと考える。

犯罪少年には、複雑な成育環境や虐待の存在が多いことが指摘されている。望ましい成育やケアを改めて受け、更生することが必要ではないか。
個別の事案に対する審理がしっかりと行われ、受けるべき罰を受けた上で、やり直せる社会であってほしいと望んでいる。



過激な報道について

今回の事件に関する報道をいくつか見ていて、気になったことが2つある。一つは、被害者の氏名や写真が公開されていたこと。二つ目は、無関係である当該校の生徒たちの下校する様子が写真で掲載されていたこと。

加害者は言うまでもなく、更生を前提としている少年法で実名報道が原則禁止されている(今回の法改正で18・19歳の重大事件については報道できるように整備される)。
しかし、被害者はどうか。実名や風貌が世に放たれることを、被害者遺族がどう思っているだろうか。
被害者遺族がそう望んでいるならともかく、そのコンセンサスが取れていない段階で、そういった報道は行われるべきだろうか。
私は、そうは思わない。

もちろん、このような事件が二度と起こらないように原因や背景を究明することは大切で、それを報道機関を通して国民に広く伝えることに異論はない。
このために、被害者の実名や風貌は必ずしも必要だろうか。


そして、無関係である当該校の生徒たちの下校する様子が写真で掲載されていたこと。
これこそ、事件の原因や背景を究明し、国民に広く伝えるために必要なものだろうか。
お門違いも甚だしく、全く必要ないのではないだろうか。
当該校の生徒たちの中には、この事件から衝撃を受け、いろんな思いの中で帰路についている者もいるだろう。そこに追い討ちをかけてはいまいか。
その報道は、本当に必要だろうか。誰が幸せになるのか。

もちろん報道する側も人間で、生活がある。その生活のために、今、現場で起こっていることを伝えるために、していることかもしれない。

私は、それを頭では理解できる。が、心からは理解できない。
今、大切なことは、事件の原因や背景の究明と、残された当該校の生徒たちのケアである。その邪魔をしてはいないか。

そういった類の報道からは距離を置き、冷静にこの事件の推移を見守りたい。



記録として

今回は取り止めもなく、思っていることを書いた。書くことは思考の整理であり、記録だ。
いつもなら記事を寝かせて推敲し、思考を重ね、深めるが、今回はあえて読み返す程度しかしていない。
この衝撃を、衝撃から感じさせられたことを、克明に記録しておくために。
教育にわずかながら関わる人間として、考えたことをここに記しておく。


次は、いつものようなブログを書こう。未来にワクワクできるようなことを考えよう。

では、今日も佳い日を。4000字弱、読んでくれて、ありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?