undercurrent
長かった夏の終わりは早い。秋が季節を陣取って久しい。朝夕の冷え込みが心地いい季節になった。
社会人になってからというもの、コト消費やトキ消費にお金をかけ、情操を養おうと生きている。例えば無形のもの、ライブや美術館、博物館、映画、神社仏閣。時間をそれらに割いてみようとしている。
空いた時間があればライブか映画か美術館今日見た映画は「アンダーカレント」。別に批評したい訳でもなく、いつも通りに思考を吐き出す。
あらすじ
アンダーカレントは真木よう子主演・「愛がなんだ」が代表作として知られる今泉力哉が監督の作品で、マンガが原作。
バンクーバー国際映画祭にも出品され、原作マンガも「漫画界のカンヌ」といわれるアングレーム国際漫画祭に出品されているらしい。あまり前情報はいれない派だが後から見てそりゃそうだと納得。
あらすじは公式HPによると以下と言ったところ。
ぼくが思うに
ぜひ本作を見ていただければと思うが、アンダーカレントというタイトルには考えさせられるところが多分にある。
undercurrentとは辞書を引くと「発言の根底にある抑えられた感情、底流」とある。
本作を見て改めて考えた時、その人をその人たらしめている「何か」こそがundercurrentなのではないかなと。
人のことを網羅的に知りはできないし、できると思っていること自体が傲慢で憚られることであろう。
人のことを「わかってる」と思うなら、それらきっとわかった風なのだろう。他者でも自分でもそれはきっとわかった風。
自分のとてもとても大切な人、それは男同士、家族、恋人、生涯のパートナー、、なんだっていい。自分にとって大切な人ならなおのこと。
undercurrentが悲しいものだろうが喜ばしいものだろうが、大切な人のundercurrentを分からなくても分かろうとする、その姿勢はとても大切なことなんだろうと思う。
その姿勢を、水に揺蕩いながら、犬と散歩しながら、火を焚べながら、食事をともにしながら、日々折々の生活の中で続けていくこと。
その姿勢こそが、その人との未来を拓いていくのではないか。
いろんなことを巡らせながら、ぼくはあっという間の143分のアンダーカレントを見終えた。
後刻譚
アンダーカレントを見た後、高の原のエスカレーターを降りながらふと浮かんだのはSUPER BEAVERの素晴らしい世界だった。
やはり、その人の全てを知ることができないよね、と渋谷先生も仰せである。
知らない時間の中にあるundercurrentを大切に、知ろうとしながら、今ある時間を過ごしていきたいと思いを新たにするところだ。
そして人はどこまでいっても一人なのだろうと、思う。それでも独りでは必ず、必ずない。目の届く周辺に誰もいなくても、広い空の下であなたを想う人がどこかにいるはずなんだと、アンダーカレントは再度思い起こさせてくれた。
一人と独りの違いもこれまた渋谷先生が以下のように仰せである。
つもるところ、ぼくの考えはSUPER BEAVERを色濃く反映されているということがよくわかった。
根っこはアンダーカレント
最近、上席が「根っこ」とよく仰せになる。その行動の根っこは何なのか、その人の根っこは何なのか。
上席と対話をする中でなんとなく「根っこ」の輪郭を掴んだような気でいたが、アンダーカレントを見て、輪郭から少し踏み込んで理解できたような気がする。
それでも「気がする」レベルだから、もっともっと人生の修行を積まんといかんな。齢二十五、勉強することは腐るほどある。
ふと見に行こうと思って時間がピッタリ合うから、という理由だけでアンダーカレントを見たが今の自分に必要なことだった。
明日からも頑張れそうだ。
頑張れるのは、いつだって、始まりは青い春だからだが、今度はそんな青い春について思考の海をダイブしたい。
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