自信の在処

この記事は2022-10-17 04:47:54の移載

季節は移ろう。

どこまでも盛り上がっていた雲はたなびくようになった。

散歩のルートは金木犀の香りを探すように嗅覚で決まっていく。

刈りたての田んぼからは土のにおいを感じる。

五感を刺激してくれる、いい季節になった。





ただ、移ろうその速度を、ぼくは知らない。

急に季節が変わったように思わされるが、実は季節はゆっくりと移ろっていた。

空の青の深さも日々変わり、水色へのグラデーションを重ねていた。

稲穂は日々背丈を伸ばし、来る時を待っていた。

ぼくは、実は知っているようで、何も知らないのかもしれない。

そういえば、仕事の時間柄あまり顔を合わせて話すことのない母が先日、藤井風のライブに行ったらしい。

「ライブは高いからよういかんわ」とか言いそうなのに、行ったらしい。


実はそう思って、そう思い込んで、決めつけているのは自分だけなのかもしれない。



そういえば、ここのところ、自信がない。

20余年生きてきて、あまりこうしたことに直面した記憶はないので少し戸惑う。

大学受験に落ちた時でさえ15分だけ落ち込んでけろっしていたのに。


なぜそのように感じるに至ったのか。

社会人2年目になって、ありがたいことにさせていただくことの種類や幅が広がっている。

その中で(当たり前だが)自身の経験則が通用しなかったり、予想を超えてきたりする。

だが、この点に関しては学びを続ければいいので、そこまでダメージがあるわけではない。


直近の出来事を振り返るに、自分があまりに持ち合わせていないことに気づかされたからであろう。

そう、「あこがれ」の存在に他ならない。

パソコンに打ち込んでいて、脳天を撃ち抜かれたような感覚があるから、恐らくこれが主要因。





2年目としては珍しく拠点の移動があり、一緒に仕事をする人たちの面々に変化があった。

ぼくより1年後輩でもバリバリ仕事をこなし時にもがいている後輩に、2個上で淡々と飄々としている先輩。

後輩は年は同い年でも学年が1個違いで先輩後輩になってしまう。いつも律儀に敬語を使ってくれる。

そして先輩は、飄々としている表現はまさに彼のような人にこそ当てられるべき言葉だといわんばかりに、飄々としている。

ついでにみなさん大好き・むすんでうみだす大学の先輩でもある(在学中は知らなかった)。


異動当初は、1年目と異なる空気感の中でやっていけるのかどうか不安が渦巻いたが、そこは何のこれしき。

ややもすれば不安と逆境はぼくにとって好物である。そこからどうにかこうにかして、そこそこには仲良くなったろう。

ひのとり目当てに名古屋に行き、リニア鉄道館でテンション上がったり、よくわからない野球を見たり。

なんかよくわからないが厄払いに行ったり、デルタで佇んで鴨川を歩いたり。

仕事終わりに銭湯に行ったりごはんに行ったりコンビニで煙をくゆらせたりした。

淡路島でたまたまブースを出していた蛇口から出るみかんジュースではしゃいだりもした。半年が濃い。



ただただ仲良しこよしなわけではなく、もちろん仕事をしているわけで。

いろいろ教えてもらったり教えたりしている中で、圧倒的な、というか、天賦の才の差を感じたのだろう。

そんな天賦の才があるとも露知らず半年を過ごしてきたからこそ、その片鱗を見た時、一種のショックを感じたのだ。

一見するとがんこでも自身の軸をぶれずに持ち、軸を以て価値判断を行っている彼。

片や、飄々としているが、洞察力に富み、事象に対する真理を追究することに優れた彼。


人はこうした時、ないものねだりで、ないものを見たらそれをほしくなる生き物だと思う。

それがうらみ、つらみ、ねたみ、そねみ、いやみ、ひがみ、やっかみに繋がることもあるなんともやっかいな生き物。

ぼくはどうだろうか、天賦の才の歴然とした差を感じる中で、きっと自信を持てなかったのだろう。

そういう意味で「あこがれ」を抱くと同時に、ひがんでいたのかもしれない。



ぼくは往々にして「大人になることは大切なものやことが増えていくこと」説を提唱しているが、

「あこがれ」も大切なものやことの一種に違わない。

「あこがれ」は必ずしも超えられるとは言えない。歴然とした差の中で、近づくことはできても。

そのことに気づいて、焦って、自信がなくなっていたのかもしれない。「超えられない」と。

しかしそこで超えなくても、学び続ければいいのかもしれない。「あこがれ」は「あこがれ」のままでいいのだ。

ぼくはあなたではないし、あなたはぼくではない。だからこそ、あこがれ続け、それでも学び取る。

そしていつの日か追い越せる日を夢見て、日々を過ごすのも悪くない。




「あこがれ」ていることに気づけた今、自信をなくしている自分はどうすべきか。

この後に続く有象無象の様々なことに対して、自信がないままでいくのか。

自信がないなりにも有象無象に対して、果敢に攻め、時に擦り減らしながら研鑽するか――。


最近僕の中でグッと来ている、ハンブレッダーズの「光」という曲中にこういう一節がある。

(うきくん加入おめでとう(^^)/)


眠れない夜をいくつ数えて

指先に触れた小さくても確かな光

言い訳になるか伏線になるかは

ここで立ち上がれるかどうかにかかってる

この一節にビビッときた。自分がまさにこの状況に置かれているのだと。

自信がないことを言い訳にするのか、伏線にして今後の行動につなげていくのか。

できれば後者でありたいものだ。ありたいならそうするほかない。

「あこがれ」を抱きながら、超えようともがき、生きていく。

そして自分もいつか誰かから何らか「あこがれ」を抱かれるくらい、研鑽し続けるのだ。

「あこがれ」が近くにたくさんいることは、とても恵まれている。

自信を失うどころか、幸せなことだ。学べる機会も、越えたいと思い、自身を身震いさせることも多かろう。



では、肝心の自信の在処はどこか。

自信がないと決めつけているのはいつも自分自身で、自分でそう言い聞かせていたのかもしれない。

はたまた、ダニングクルーガーの曲線で言うところの「絶望の谷」にいるのかもしれない。

自信は「あこがれ」のそばにあるのではないか。あこがれを抱く中で、きっと、自信を持てる事柄もあろう。

その自信に気づけるかどうかは、自身が他者の言葉に素直に耳を傾けられているかによるはずだ。

他者の言葉には素直に耳を傾けながら、いい評価も悪い評価をも受け入れていく。

そして改めて自分の機嫌は自分で取りながら、今日も明日も、もがきながら進もう。

全ての結果がここに帰結するように、まるで全てが伏線だったかのようにするのは自身であって、この答え合わせはずっと先ですることになる。その時に後悔しないように生きるのが、ぼくの生き方だ。



心にある、もやもやした、言葉では言い表せない何かに言葉を当てていき、

しっくりする言葉を見つけていくこの時間は自身にとって大切な時間である。

それはああでもないこうでもない、と言いながら自身に似合う服を見繕っている様と似ていると思っている。

試着するということは、自身にとって大切なプロセスの1つだ。

こうして、もやもやを推論し仮説に昇華させ、仮説を実証していくのが性に合っているのかもしれない。

その仮説が反証されればまた、別の仮説を考えよう。


そんな試着の時間を最後までお付き合いいただいて、どうもありがとう。

ひとまず自身に合うものを見つけたので、これにて。それでは、銘々の佳い一日を。


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