28年前に見た阪神淡路大震災
今日は阪神淡路大震災から28年の日である。
BIGLOBEが経営するブログが今年1月でサービス終了するので、2007年に書いたブログ「12年前に見た阪神淡路大震災」をここに再掲したいと思う。(小見出しを追加)
これ自体が16年前の日記なので文章も稚拙だが(今も稚拙だが)興味がある方は読んでいただければと。
あと、年齢がバレてしまうなw
補足すると、当時住んでいたのは兵庫県小野市です。
以下、2007年の文章そのまま
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今日で、あの大震災から12年が経つ。
12年といえば干支が一周したことになる。
そういえばブログ始めてからこの日を迎えるのは
初めてなので、一度は触れておきたい。
12年前の日記と思って読んでいただきたい。
当時の状況
当時私は神戸市灘区にある国立大学の4年生だった。
住んでいたのは神戸の中心地から電車で1時間かかる
田舎の実家だった。
1時間といっても、六甲山を上り下りする鈍足の
ローカル線なので、直線距離にしたら30kmぐらいである。
大学までは通常1時間40分ぐらいかけて通っていた。
前日までは祝日絡みの連休で、週明けまた学校か~とか
思いながら就寝。
地震発生直後
未明、異常な揺れで目を覚ます。
当然自室のベッドで寝ていたわけだが、ベッドの横にある
タンスの上から片付いてなかった紙類などがバサバサと
落ちてくるのであわてて布団を頭からかぶった。
間違いなく今までの人生で体験したことのない揺れだ。
隣の兄の部屋は増築した部分だったので揺れも大きく、
29インチのブラウン管TVがラックから落ちて、
ラックのガラス扉が割れたりした。
実家のかなり西方に山崎断層というのがあって、
小学生の頃にそこを震源とする地震があった。
当時は学校の授業中で、教室のTVがガッコンガッコン
揺れていたのを今でも覚えている。
最初は、てっきりまたそこが震源だと思った。
家では停電が起こり、TVもつけられないので
ラジオをつけてみようと模索するが暗くてなかなか
思うようにいかない。
後で友人から聞いた話だと、TVの第一報は
「東海地方で地震がありました」だそう。
まあ、確かに震度2~3ぐらいは揺れたでしょうがねえ・・・
家の停電は1時間程度で復旧。
正確な情報が入ってきて驚いた。
震源は淡路島の北端?神戸で大きな被害?
実家周辺の震度は4と発表された。
あの揺れで4程度なのか?
まだ震度7の基準が明確でなかったときの話である。
今の基準でいえば、4強か5弱はあったと思われる。
しばらくの間断続的に余震が起こり
(住んでいるところでは震度1~2程度なのだが)
それでも恐怖感を覚えた。
報道で知る被災状況
当時、私の兄は阪急電鉄の運転手をしており、
必ず2日に1度は駅で泊まってくるという生活を
していのだが、その日はたまたま家に居た。
(これはほんとにラッキーだったと思う)
その兄が「阪急電車が脱線したから学校行かれへんで」
と言ったので
「ふーん、じゃあ今日は休んでいいのかな?」
ぐらいに思っていた。(まだ被害の映像を見ていない)
が、ようやく普通に朝起きてご飯を食べ始めるぐらいの時間帯に被害の映像がTVに映し出されると衝撃の連続。
脱線、なんてもんじゃない、崩壊?
これがあの神戸なの!?
というか、ここは日本なのか?
電車で1時間かかるといっても、当時「街に出かける」
といえば神戸のことを指していた。
神戸の大学に通い始めてから、三宮の遊び処や目ぼしい
お店(まあ、オタク関係だけど・・・)も把握してきて、
次第に「庭」みたいになってきていた。
電車の出口の上にかかるアーチが印象的な阪急三宮駅の崩壊、三宮センター街のアーケードの崩落、
真下に活断層があった影響で縦にひびが入り
真っ二つになって上下にずれた神戸そごう。
自分が慣れ親しんだ地が変わり果てた姿に
なっているというのは何とも言えない違和感、
TVの映像だから余計に現実感がないという感じ。
2週間後、自身の目で見た神戸
地震から2週間後、初めて学校から召集がかかった。
主に生存確認と今後の方策についての説明があるらしい。
鉄道網がズタズタなのでかなり迂回する必要があった。
六甲山内部をトンネルで突っ切る鉄道が代替手段となり、
(高いので普段は使わない)
新神戸駅まで出たらそこからはバス。
学校まで2時間半かかった。
しかし、京都から通っていた友人は4時間かかったと言う。
自分の親しい友人の中では一人も犠牲者はいなかった。
これは本当にラッキーなことだったと思う。
ただ、住む家を失った友人はざらにいる。
卒業研究発表が近づいている時期であったのだが、
一部の研究室ではHDDのデータがクラッシュしてしまった影響で、学科全体での大掛かりな研究発表は無くなり、
研究室単位でこじんまりとやる、ということになった。
(これもある意味ではラッキー)
学校からの帰りが夕刻を過ぎてしまい、阪急六甲駅からのバスの最終便が出てしまっていたので、
三宮まで3駅分歩いてみた。
道路のあちこちがひび割れ段差が出来て歩きにくい。
三宮に近づくにつれ、建物の被害も大きくなっていく気がする。
気になったのが、ゴミ袋がそこら中に捨てられ回収される様子もなく、生臭い匂いが漂っていた。
ここは本当に人間の住む街なのか?
まあ、人間が住んでいるからゴミが出るわけだが。
そして1時間半ぐらいかけて三宮に到着。
阪急三宮駅は取り壊しの作業中だった。
現実を認識したところで新神戸駅に戻る。
三宮-新神戸間は地下鉄一駅で、歩いたら15分程度なのだが、
特にここを歩くと南北での被害の違いが顕著に分かる。
最初に新神戸駅を降りて印象的だったのは、
新神戸オリエンタルホテルが入っているガラス張りの細長いビルが
傷一つなく建っていたことだった。
新神戸駅周辺は意外にも大きな被害の跡がない。
これらのことから分かるのは、新神戸駅は山のふもとにあるのでそれなりに地盤がしっかりしているが、三宮周辺は海に近く埋め立てなのでもろいからということだ。
そして、直線距離で30km程度なのに震度7から4~5程度まで
抑えてくれたのは間違いなく六甲山のおかげだ。
大きな破壊は大地によってもたらさえるが
それを吸収するのもまた大地。
やはり自然の力は凄い。
できることなら、なるべく自然はあるべき形を保って
いさせるべきじゃないのか、という教訓にもつながる。
当時の我が家は被災地域に近いが正常な暮らしができている
という立場上、何度か被災地域の知り合いがお風呂を借りにきたり、おにぎりを大量生産して兄に持たせて西宮の職場で配ったりと微力ながら手助けもした。
(といっても私がしたのはおにぎり作る手伝いぐらいだが・・・)
父親は当時神戸市の教職員(小学校の音楽の先生)だったので、そりゃもう大変だったようだ。
思い返して
今、神戸の街へ出ると、本当にあんな震災があったのかと
思えるぐらい復興している。
人間の力も、また凄い。
当時、鉄道網や倒壊した阪神高速道路の復旧は
当初の予測よりはるかに速いペースで行われた。
最近阪神間ではマンション建設ラッシュで、
小学校の規模が足りなくなってきているという。
当時産まれた赤ちゃんがもう12歳・・・
今、Mixiのマイミクさんで最年少は24歳あたりだが、
その方が12歳のときだったわけで。
俺も歳を取るわけだ(笑)
あの事件(と呼んでも差し支えないと思う)を
風化させたらいけないな、と思ったりもするので
こんな日記を書いてみました。