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私レシピ
こんばんは、来世です。
今日は、わたしの性格形成に大きく影響したであろう、幼少期のことを少し、お話ししようと思います。
暗い話しになるので、苦手な方は引き続きツイッターの投稿を見て頂ければと思います。
読んだからには「不幸自慢乙wwww」とか絶対に言わないように。
では、ホラー耐性のある方、ぜひ読み進めてみてください。
私は両親とずっと不仲で、いわゆる虐待とか過干渉であったり、両親の殴り合いの喧嘩を弟と2人で泣きながら見たり、母親に傷を見せられ「裁判になったらお前たちが証言するんだ」と言われたり、常に「母親と父親どちらに着いていくか」の選択を迫られ、「離婚しないで」と、幼く力の無い、届かない願いを毎日抱いて眠ったり、「弟じゃなくてお前が障害だったら良かった」(わたしの弟は"ダウン症"という知的障害を持っています)と言われたり、家族との思い出がいいものばかりだったとは正直言えない幼少期を過ごしました。
母親には精神的な病気がありました。
嫁姑問題、長きに渡る不妊治療、弟の知的障害、子宮ガンの発覚、祖母の死、たくさんの要素が母をそうさせたのだと思います。
病気だったら何しても良い、そうは思いませんが、わたしは母の気持ちも理解できるのです。
わたしはそんな親の存在が疎ましくもあり、それでも家族が好きでした。普通の家庭が分からないが故、それすらも愛おしく思えていたのかもしれません。
性格が瓜二つなわたしと母は頻繁に互いを苛立たせました。
本にはお金を惜しまなかった母への反抗心で、家中の本を破り捨てた事もあります。
もちろん、死を覚悟するほど激昂されました。
母との関係に思い悩み、小学生ながらカッターを腕に当てた事もありました。その頃から、幼い自分にはまだ理解の及ばない、漠然とした希死念慮を抱えることになりました。
そんなわたしも高校生になる頃には母に力で勝てる様になり、殴られる事も減っていきました。
なるべく穏便に暮らす為、毎日母の顔色を伺う癖もついていた上に、極力会話をしない、という裏技まで発見しました。
そして幸いにもわたしが入っていた部活がとても忙しく、平日休日共に家にほとんどいる事がなかったので、実家で暮らしていた中でも比較的平和な日々が訪れました。
なんだかんだ時が過ぎ、わたしがハタチになった時、逃げる様に家を出て、わたしは一人暮らしを始めました。
それからの毎日は本当に幸せでした。
親に縛られない生活、支えてくれる恋人の存在、夜中に帰ったって、始発まで帰らなくたって、誰にも怒られない、誰の顔色も伺う必要もない。"解放"を身に染みて感じました。
親とはほぼ絶縁状態でしたが、当時の恋人の両親がその代わりを担い、優しく迎え入れてくれました。恋人の親戚に会いに新潟まで行ったり、たくさんのあたたかい家庭を知ることが出来ました。
その恋人とはもうお別れしてしまいましたが、今でもとても心に残っている、大切な思い出です。
私が家を出てから2年が過ぎた頃、急に転機がありました。
突然の母からの電話。
急に全てがフラッシュバックして苦しくなり、一度目の着信にわたしは出ることができませんでした。
二度目の着信、大切な話しなんだと悟ったわたしはその電話を取りました。
「自分が毒親だった事に今更気づいた、あなたは悪くなかった。本当にごめんね。」そう言った母の声は震えていました。
きっとこの2年間、たくさん悩み考えて、悔やんできたのだろう、わたしが家族を忘れて楽しんでいる間も母は、ずっと苦しんでいたのだろう。
わたしは自分がとてつもなく薄情な人間に見えました。
その時にはじめて、母の弱さを知りました。
それまでわたしは、母親はみんな強くて当たり前、弱い訳がない、強さ故の過去だと思っていました。でも、そうじゃなかった。
母の弱さが、暴力や言動を生んでいた。
わたしはもっと早くそれを知るべきだったはずなのに。
私は謝罪を受け入れ、母を許しました。
それから母と、空白の2年間の出来事を話しました。そして、わたしと暮らさなくなった母の心の病がみるみる良くなり、それに伴い家庭の問題も解決していったことを知りました。
あの家にとっての毒はわたしだった、そっか。
毒が抜けて清潔になった家で、弟がこわい思いをする事はないんだ、良かった。
それから初めて、"家族ライン"を作りました。
びっくりしました、そこに送られてくるのは両親が2人で写っている写真や家族3人の旅行写真。
そんなとこまでいってたんだ。
いいな、いいな、いいな、いいな。
それから、書いていてはキリがないほど、色々な事がありました。
1番の変化は、母に助けを求められるようになったこと。
事故で耳が聞こえなくなった時、不安で仕方なかったけど、母がずっとそばに居てくれました。生きててくれて良かったって、泣いてくれました。わたしは母にちゃんと、愛されていました。
わたしは母からの愛情を知らずに生きてきたからか、今でも「愛されたい」「必要とされたい」「自分をちゃんと見てほしい」という欲求、言わば呪いを背負っています。
それを友達や恋人に押しつけてしまう事もあります。
「いつか見捨てられるかも」「自分はいない方がいい」「嫌われたくない」という恐怖も常についてきて、うんざりする事もあります。
だけどなんか最近は、かなり調子がいいんです。
しつこいほど構ってくれる、フォロワーのお陰か、私をちゃんと見てくれている、好きな人がいるからか、半年に一度、家族で鰻を食べに行くようになったからか。
いや、きっと全部。全部が私を調子良くしてくれている。
インターネット(サブアカウント)を初めて、色んな人をフォローバックする様になり、改めて自分のフォロワー層を知りました。
複雑な環境下にいる子、心の病に苦しんでる子、たくさん見ました。
その子達がこの記事を読んだからといって楽になる訳じゃないけれど、わたしはあなた達に共感できるという事、いつでもわたしがいるよって事を知ってほしくて、この記事を書きました。
余計なお世話かもしれないけど、だとしても、誰かの心に届いたらいいな。
じゃ、ばいばーい。