崖っぷちのはにわり 第一章「迷宮の分岐点」
その頃僕が住んでいたアパートは、狭い路地の奥に佇む古い2階建ての木造アパート。道路に面した階段は、古く錆びついている。部屋は、6畳2間の和室。今で言うゴミ屋敷状態だった。小学校6年の僕は、もう何日も学校へ行っていない。両親は、僕が幼い時に離婚し父に育てられていた。その父は、3日も顔を見ていない。ボサボサの髪は、肩まで伸びていた。最後にいつ床屋に行ったか覚えていない。敷きっぱなしの布団は、湿ってカビ臭い。その布団に座り少年漫画を読んでいた。その時は、読んでいると言うより眺めていたという方が正しいのかも知れない。同じ本を何度も繰り返し読んでストーリーもすっかり覚えてしまった。ボロボロになった本は、自分を投影しているように思えた。
膝を抱えるように漫画を読んでいる時に階段を登る靴音が聞こえてきた。
靴音は、部屋の前で止まりドアをノックする音。
「こんにちわー、立花さん、児童福祉課の者です」
少し驚いた僕は、掛け布団を頭から被り息を潜めた。
更にドアをノックする音。
ドアの前には、児童福祉課の職員である山崎涼子が立っていた。後に自分を闇の中から救ってくれた女性です。
「だれもいないのかしら…… 夏音君、居ますか?」
隣の部屋のドアが開き中から田中芳江が出てくる。
「夏音ちゃんどうかしたんですか?」
「私、児童福祉課の職員なんですが夏音君が学校へ来てないんです。教育委員会から連絡がありまして」
「ああ、夏音ちゃん最近見てないわ。父親も、最近見てないわね。夜、電気ついてるから居ると思うんだけど」
「そうなんですか」
「あいつ……夏音ちゃんの父親なんだけど。ろくな奴じゃないわね。子供ほっときっぱなしで飲み歩いて。時々ヤクザみたいな人も出入りしてるし。母親も6年くらい前、愛想つかして出て行っちゃったのよ。可愛そうに、夏音ちゃん残して」
「そうですか、少し心配ですね。私、また出直してきますが何かあったらここに連絡ください」
涼子がバックの中から名刺を取り出し芳江に渡す。
芳江は、受け取った名刺を目を細めながら見る。
「山崎涼子さんね……わかりました。何かあったら連絡するわ」
「宜しくお願いします」
涼子は、かるく会釈をして階段を下りて行く。
夕方、空腹を忘れるように部屋でテレビを見ていた。
いつも深夜に酔って帰宅する父を待ち、僅かなお金を貰って近くのコンビニで夕食を済ませている。
しかし今回は、もうすでに3日は、その姿を見ていない。空腹は、『辛い』と言うより恐怖だった。
「このまま餓死してしまうかもしれない」そう言う不安で心が支配される。
階段の靴音がするたびに父の帰宅を心の中で願う。
その時だった。ドアのノックする音。
いつも父は、ドアノックなどしない『誰か来た』不安で心が揺れる。
慌ててテレビを消して息をひそめる。
「こんばんわ、夏音ちゃん居るんでしょ」
聞き覚えのある声は、房江だった。
「こんばんわ、夏音ちゃん居るんでしょ」
緊張して膝を抱えていた僕は、少し安堵した。
返事も忘れドアをそっと開けると房江が隙間から覗き込む。
「お父さん居ないんでしょ?」と言うと同時にドアを開けて小鉢を差し出してきた。
「夏音ちゃん。お腹すいてるでしょ」
その小鉢には、湯気の立つカボチャの煮物が入っていた。
「ほら、これ。カボチャの煮物。良かったらお食べ」
この3日間、水しか飲んでいなかった僕は、空腹でこのまま死んでしまうのかも知れないと思っていた。
嬉しさがこみ上げてくる。普段、口の悪いおばさんなのだがこの時だけは、神様のように見えた。
「ありがとう。おばちゃん」
小鉢を受け取ると暖かさと煮物の香りが僕の体に染み渡るように感じた。
「お父さん、帰ってこないの?」
「うん、もう3日帰ってきてない」
「どうしちゃったのかしらねー、困ったものね」
「……」
「まあ、とりあえず。これ食べて元気だしな。また何か持ってきてあげるから。困ったことがあったらおばさんに言うんだよ。じゃあね」
「ありがとう。おばさん」
房江は、ドアを閉めて帰って行く。
こんな温かい手料理は、何年ぶりだろう。
母がまだここに居た時の微かな思い出が蘇る。
翌日は、よく晴れてカーテンの隙間から日が差し込んでいた。
その明かりで布団の上に座り、いつもの漫画を眺めていた時だった。
コツコツと階段を登る靴音が聞こえてきた。
その靴音は、僕の部屋の前で止まった。
強く叩くドアのノック音。
強いノックに驚いた。
「おい、立花! 俺だ、いねーのかよ」
ドアの前には、黒の上下に開襟シャツの竜崎健也が立っている。
竜崎は、父の兄貴分のような存在だ。
父を連れ出しては、何か仕事をさせている。
「立花! いねーのかよ」
竜崎がドア横にある郵便ポストを開けて鍵を取り出す。いつもそこに鍵が置いてあることを知っているのだった。
布団をかぶって息を潜めているとドアが開き竜崎が入ってきた。
ドアを開けて玄関に入るとあたりを見回して、
「相変わらず、きったねー部屋だな」
竜崎は、靴を脱いで僕の布団まで歩み寄り勢いよく布団をはがしてきた。
敷布団の上で膝を抱えて丸くなった僕を見て。
「おい! 夏音。オヤジどこ行った」
上目遣いで竜崎を見て首を横に振る僕。
「だろうな、オヤジもうここには、帰ってこねーぞ」
僕の心に不安がよぎる。
「あいつ、組の金を使い込んだんだ。見つかったらタダじゃ済まない」
僕は、父が帰らない理由がわかったと同時に本当に餓死するかも知れないと言う不安がよぎる。
俯く僕のお腹が「グー」という音を鳴らす。
竜崎が呆れた顔で僕を見下ろす。
「何だ。腹減ったのか。何日食ってねーんだ」
僕は、右手指を3本立てる。
「しょーがねーな。おい! 飯食いに行くぞ。着替えろ」
着替えろって言われても着替えがない。
「服、無い」
「えー、お前、その服ボロボロじゃねーかよ。まあいいや。行くぞ」
竜崎に従うように後をついて部屋を出ると、その様子を伺うように隣の部屋のドアが半開きになり芳江が顔を半分覗かせて様子を見ている。
階段を下りて行く僕たちをじっと見ている。
連れて行かれた中華料理店は、アパートに程ない昔ながらの食堂。
数人の客が料理を食べている。
昼時ともあり店主の「いらっしゃい」の掛け声が威勢よく響いている。
そんな中、僕と竜崎は、テーブルに会い向かいに座りラーメンと餃子を注文した。
この食堂には、父と時々来ていた。
料理をしない父は、コンビニ弁当かカップ麺が日常で年に数回此処で食事を取る事が唯一の贅沢だった。
まもなく運ばれてきたラーメンと餃子。
昨晩のカボチャもありがたかったが胃袋は、目の前のラーメンを求めている。
空腹の不安を埋めるようにガツガツとむさぼるように食べた。
竜崎が箸を止め呆れるような顔をして僕を見た。
「おい! もっとゆっくり食べろ。何日も食ってねーんだろ。胃が驚いちゃうよ」
僕は、胃袋の求めに従い一心不乱に食べていたのだが竜崎の言葉で我にかえった。
箸を止め竜崎を見る。
食事が幸福感を呼び覚ましたのだろうか。
先程までの不安に満ちていた心が安堵に変わっていた。
「ありがとう。竜崎さん」
竜崎は、苦笑いしながら、
「ああ、いいから食べろ。ゆっくりな」
先にラーメンを食べ終えると竜崎の餃子が2個食べ残してある。それを僕に差し出す。
「お前、これ食っていいぞ」
本当は、満腹だったのだが竜崎の好意を無にできないと感じた僕は、ありがたく頂いた。
「いただきます」嬉しそうな作り笑いで箸を伸ばす。
竜崎も食べ終えコップの水を飲み干す。
「夏音、どうだ? 美味かったか?」
頷く僕を竜崎がまじまじと見つめる。
目が合い少し照れくさくなり目をそむけるように俯く。
「そのかっこう、何とかしなけりゃな。おい、行くぞ」
おもむろに立ち上がり会計を済ませ店を出る竜崎。
その後を追うようについていく。
しばらく商店街を歩くと見知らぬ美容院へ入っていく竜崎。
美容院は、入ったことが無い。
僕とは、縁のない未知の領域だった。
汚い僕なんかが入っていいものなのか躊躇してしまい入口前で足が止まる。
そんな僕を竜崎が入り口ドアの中から振り向いて見る。
「いいから入れ」
恐る恐る店内に入ると一種独特の雰囲気を感じた。
女性ばかりの店内、シャンプーの匂い。
大きな鏡と肘掛けの付いたおしゃれなカット椅子。
僕には、とても不釣り合いで場違いの所に連れ込まれたような雰囲気だった。
店内は、女性客が数人カットやパーマをかけている。
構わず竜崎が待合の椅子に腰かける。
その横に腰掛けた僕は、不安げに店内を見回していた。
竜崎は、平然と雑誌を読んでいる。
その竜崎に向かって美容師が声を掛けてきた。
「次の方どうぞ」
竜崎が僕を見る。
「お前だよ。髪切ってこい」
何日も洗っていない僕の汚い髪の毛で大丈夫なのか不安な気持ちでカットチェアに腰かける。
美容師は、鏡越しに僕を見て、
「どうしますか」と聞いてきた。
僕は、どう注文していいかわからないので躊躇していると竜崎が、
「可愛くカットしてくれ」
少し驚いてしまった「可愛くって? 」そんな注文を竜崎がするのか。
美容師は、笑顔で僕を見る。
「ふふ、お父さん? 貴方、可愛いわね。ボブがきっと似合うわよ」
「僕が可愛い?」想像もしていなかった言葉に少し混乱していた。
しばらくするとボブカットになった僕が鏡の中にいる。
ここにいる僕が僕でないような不思議な気分だ。
明らかに今まで見たことのない自分が鏡の中にいる。
「ほら、可愛いわ。とっても似合ってる」
本当にこれが自分の姿なのか。
鏡の中の自分に感動し胸が鼓動している。
「可愛い。僕、女の子みたい」思わず口走ってしまった。
『しまった!』羞恥心で顔が熱くなる。
美容師が驚いた顔で僕を見つめる。
「えっ、ごめん。あなた男の子なの?」
うなずく僕。
「ごめんなさい。ぜんぜん気が付かなかった。もっと早く言ってくれれば」
気がつくと後ろに竜崎が立って鏡の中の僕を見ている。
「思った通りだ。その髪型すごい似合てるじゃねーか」
「驚きました。女の子だと思い込んじゃって。ごめんなさいね」
「ああ、あとは、その服だな。なんとかしねーとな」
確かに僕の着ている服は、ボロボロのデニムと襟がヨレヨレの汚れたシャツだった。
こうして美容院を後にした。
竜崎の横を歩きながら自分の頭からシャンプーの香りが漂ってくるのを感じた。
それは母との別れ際に胸に抱かれた時の香りだった。
しばらく歩くとティーンズ向けのかわいい洋服が並ぶ店に入る。
もう、こうなることは、想像していた。
この人は、僕を女の子にしようとしている。
でも嫌な気持ちではなかった。
と言うより変身していく自分が楽しかった。
毎日あの暗いアパートでただただ時間だけが過ぎていく事が当たり前だった。
そんな僕の心に光が差し込んできたような気持ちになった。
ワクワクするような、胸が踊るような不思議な高揚感に包まれていた。
ついさっきまで過ごしていた暗く湿った部屋。
そして空腹でこのまま死んでしまうのでは、と言う絶望感から変貌していく自分。
生まれてはじめて味わう高揚感に引きずり込まれていく自分がいる。
僕は、どうかしちゃったのだろうか?
ブティックに入ると若い店員がすぐに近寄ってきた。
茶髪だが清楚で可愛らしい店員だった。
「いらっしゃいませ」
「俺は、こういう所入った事ねーんだ」竜崎は、少し照れているように見えた。
僕は、正直言って何をどう選べば良いのかまったくわからない。
竜崎を見上げ、「少し恥ずかし……」
男子であることが知れたらどうしようと言う羞恥心が湧いてきた。
「まあ、いいや。お前、何も言うな。店員に任せておけ。いいな」
僕は、頷くしかなかった。
「可愛いお嬢さんですね」
「俺はよぅ、こういう所苦手でさ。適当に、こいつに似合った服選んでくれ」
「かしこまりました」
店員は、僕に目線を合わせるように屈む。
「どんなお洋服が好みかな?」
「わかんない」
本当にわからなかった。
「じゃあ、お姉さんにまかせて」
しばらく店員に言われるままに試着した。
店員は、次々に可愛らしい洋服を持ってくる。
数着の服を試着した所で一番似合うという服をコディネートしてもらう。
「さあこれで完璧よ」
店員が靴を持ってきた。
その靴を履いて鏡の前に立つと別人の僕が居た。
ついさっきまでアパートに引きこもっていた僕の姿は、そこに無い。
すっかり美少女になった自分が鏡に写っている。
僕の心は、鏡の中の自分に吸い込まれてしまった。
生きてきて今までに感じたことのない恍惚感のような幸せに心が締め付けられた。
「すごい、可愛い! これ本当に僕なの?」
竜崎も僕の姿を見て驚いている。
「すげーな。超かわいいじゃん。お前、本当に男なのか?」
店員が驚く。
「えーっ、女の子じゃ無いんですか。嘘でしょ。ちょっと胸も膨らんでるし」
竜崎も顔がほころんでいる。
「これ、全部会計して。古い服、捨てていいから」
店員、驚きが止まらない。
「あのー写メ撮っていいですか?」
僕は、鏡の前でクルクル回りながら自分の姿を見ている。
「これ、僕なの」
店員は、スマホで僕の写メを撮っている。
「あのーインスタにアップしてもいいですか?」
竜崎に聞く店員。
「ああ、いいよ」
帰り道、2人並んで歩いている。
僕は、何だか少し後ろめたい気持ちとこれから戻る部屋のことを考えると憂鬱な気持ちになっていた。
「お前、男だよな。これってニューハーフみたいなやつか?」
「違う……」
そう、僕には、誰も知らない体の秘密を抱えている。
男性と女性の両方を持っている。
最近まで女性のこれは、大人になると閉じてしまう物だと思い込んでいた。
でも、最近体型が微妙に変化してきていることは、感じていた。
「違うって何が?」
「両方」
「ん? 両方って、どういう事」
「両方付いてる」
「えー、何だそれ。意味わかんねーし」
「僕も良く解んない。さっきまで自分が男だと思ってたけど……」
「ふーん。世の中、色んな奴がいるんだな。でもよーお前、女が似合ってるぞ」
「僕もそう思う」
「お前、これからどうするんだ」
帰ればあのゴミ屋敷と食事もろくに食べられない生活が待っている。
帰りたくない、あの生活に戻りたくない。
死にたくない。
一瞬の幸福感から谷底へ突き落とされるようなそんな気分が僕の心を増幅させた。
「わからない」不安で一杯な気持ちだったが先のことなんて考えられなかった。
「おまえさー、金なるよ。その体」
「金になる?」何を言ってるのかわからなかった。
「まあ、俺に任せておけば必ずお前に稼がせてやる」
「本当なの? 僕が稼げるの?」正に藁をも掴むそんな心境だった。
「ああ、こんな生活から抜け出せるし、お前のオヤジの借金も返せる」
「どうやって稼ぐの?」一抹の不安を覚えた。
「まあ、なんだ…… 世の中、可愛い奴にお金をいっぱい出す奴もいるんだ」
「……」いやな予感しかしなかった。
「まあ、そりゃ生きていく為には、少し位やな事もあるさ、でもな金は、大事だ。俺にまかせろ。悪いようには、しないから」
その時は、うなずくしかなかった。
竜崎と僕がアパートに着いてドアを開けようとした時だった。
すぐ後に涼子と警察官が歩み寄る。
「立花さんですか」涼子が竜崎に問いかける。
その声に振り向く竜崎。
「立花の知り合いだよ。何だよ、お前ら」
涼子が不審そうな顔で僕を見る。
「君、夏音君? だよね」
僕は、頷く。
驚いた顔で僕のつま先から頭まで見渡す涼子。
「えぇ、男の子じゃ無いの?」
竜崎が苦笑いをしながら、
「そいつはよー、両方なんだ」
「何言ってんですか」
「何って……その、何がさ」
「学校から虐待の疑いがあるって連絡受けてるんです」
警察官が竜崎を睨みつけている。
「あのねー、ご近所から不審な男が子供を連れまわしてるって、通報があってね」
「俺は、不審者じゃねーよ。何だよ。俺はよー、親切心でこの子に飯食わせてやってんだ。文句あんのかよ」
「ちょっと事情を聴きたいので署までご同行頂けますか?」
「俺は、虐待なんてしてねーし。立花だろ虐待してんのは」
隣の部屋のドアから半分顔を出して聞いていた芳江が出てくる。
芳江が夏音を見て、不審そうな顔をする。
「だれ? その子……あれーあんた夏音ちゃんかい?」
頷く僕。
「見違えちゃったよ。でも、何で女の子の恰好してるの。さっきまでボロボロのズボンだったじゃないの」
「俺が着せたんだよ。似合うだろ」と竜崎が自慢するように言う。
涼子と警察官が竜崎を睨む。
「お前、男の子にこんな格好させて、どうしようって言うんだ。お前、逮捕しようかこの場で」
慌てた竜崎は、顔を真っ赤にして、
「俺は、そんなつもりじゃ……ただ可愛かったから」
その時だった、僕の股間から何か温かい物が滴る。
その内ももに滴るのは、血だった。
「あっ!」
何が起きたかわからない僕は、パニックに至った。
「血が……」
涼子が、心配そうにそれを見る。
「どうしたの、怪我してるの?」
僕は、何も覚えがないので首を横に振る。
涼子と警察官、竜崎を睨む。
驚く竜崎。
「お、俺は、何にもしてねーよ!」
「とにかく病院行きましょ」
警察官は、竜崎の腕を掴み、
「お前は、警察署で取り調べだ。こい!」
「えーっ、俺は、何にもしてねーよ! なんでだよ!」
すぐにパトカーに乗せられ病院へ直行した。
竜崎は、そのまま警察署に連行されていった。
病院で僕は、体の隅々まで診察された。
病院での診察は、初めての経験だった。
かぜをひいても病院へ行ったことがない。
全身を隅々まで診察された。
恥ずかしい思いもあったが診察ってこういう所なのかと思った。
診察も終わり診察用ベットに腰掛け前ボタンを留めていると、涼子が入ってくる。
医師が机の前に座りカルテを見ている。
「まあ、そこへお掛けください」
医師の合向かいにある丸椅子に涼子が座る。
「先生、この子どうなんですか。何か乱暴されたんじゃ……」
「いや、乱暴は、されていません。初潮ですね」
「え? でも……この子、男の子ですよね?」
「両性具有です」
「両性具有って?」
「性分化疾患なんですが、まあ、ごく稀に居るんです。性器が未分化で両方付いている。成長するにしたがって夏音ちゃんの場合、女性寄りに変化してるんですね」
「そんな、そんな事ってあるんですか」
涼子は、にわかに信じられないような顔で僕を見つめていた。
僕は、少し安堵した。
女の子の服を着てもいいのだと。
それまでいけない事をしているような後ろめたい気持ちだった。
「僕、女の子なんですか? これからどんどん女の子に成っちゃうんですか?」
「夏音君…… 夏音ちゃんは、体の事をご両親から何か聞いている?」
「お母さんが家出する前に聞いた事がある。両方付いてるって…… でも大人になると普通の男の子になるって、そう言われて信じていた」
「そうなのか。でもね、夏音ちゃんの場合は、これからどんどん女の子になっちゃう。どうしても気になるようなら手術する事もできるよ」
「手術って?」
不安がよぎった。何をどうするのか、切ってしまうのか塞いでしまうのか。
とても考えられなかった。
「無理に体をいじらない方がいいね。大人になってから考えた方が良い」
「夏音ちゃん、大丈夫?」
涼子が声を掛けてきたが耳に入らなかった。これが現実なのかもしかしたら夢を見ているのだろうか、不安と安堵が交差し頭の中は、混乱していた。
僕は、そのまま福祉課の談話室に連れて行かれた。
狭い談話室には、事務用机と向かい合わせにパイプ椅子が置かれている。
机に合向かいに座る涼子と僕。
「夏音ちゃん、ご両親の事を聞きたいんだけど。お父さんは、どうしているの?」
「3日位前に、どこか行っちゃって帰ってこない。竜崎のおじさんは、もう帰ってこないだろうって」
「お母さんは?」
「僕が、小さい頃、出ていった。僕を置いて」
「辛い思いをしてきたのね」
「僕、これからどうなるの?」
「とりあえず、児童養護施設にあずかってもらうわ、お父さんが見つかるまで」
「養護施設に入るの? 僕」
「施設は、食事もしっかり出るし、個室もあるわ。狭いけど。そこから学校へ通うのよ」
「僕の体の事は、……」
「そうよね、その事よね。夏音ちゃんは、どうしたいの」
「僕、良く解らない。でも、あのアパートには、帰りたくない。お腹が空いて、もしかしたらこのまま死んでしまうのかって思った事もあったし。竜崎さんに売られてしまうような気もするし。でも、竜崎さんにこの服着せられて自分の体が自分じゃないような、でもこういう服、着て初めて分かった。自分には、女の子の服が似合うんだって。本当は女の子だったんだって」
「辛かったのね。あなたにもうこれ以上つらい思いは、させたくないわ。私が全力で君を守ってみせる。でも不思議よね、ついさっきまで男の子だったのに。でも似合ってるわ。どこから見ても可愛い女の子にしか見えないし」
「僕、女の子になっても良いの? なれるの?」
「そうよね。いきなり、君は、これから女性になるだなんて言われたら困っちゃうよね」
「僕、女性の事が解らない。生理とかどうしたら良いの?」
「そうね、そこから教えて行かなくっちゃね。それと周りの目ね」
「目?」
「言いにくいんだけど良く聞いてね。君の体のことを知った人は、君の体の事を興味本位で見てくる人もいると思うの。隠し通す事ができればいいんだけど君のことを知っている人もいるでしょ。突然女の子になったら何を言われるかわからないし」
「興味本位って…… じゃあどうすればいいの?」
「これから辛いこともあるかもしれない、でも君は、一人じゃない。私達が付いているわ。だから、私達を信じて」
僕は、その時に決心した。この人を信じよう。そして女性として生きていこうと。
つづく