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崖っぷちのはにわり 第9章 転校

 ベットで熟睡している私の顔に朝日が差し込で眩しさで目が覚めた。
何日ぶりだろうこんなに熟睡したのは、今日は、新しい学校へ転校して登校する初日だ。
 始めて行く学校は、正直言って少し不安だ。でもあの悪夢のような日々から抜け出せた事が何より嬉しい。

 悪夢のような日々を過ごしていた時には、幼少期に過ごしてきた閉ざされた世界に戻ってしまうのかと思っていた。
育ってきた幼少期。それは、命の危機さえ感じたあのジメジメした空虚な空間。
それが当たり前と思っていた自分がそこには、いた。

 私が、男子として過ごしてきた幼少期には、他の人との関わりを知らなかった。

 友達を作る事が怖かったのだと思う。
いつも同じ服を着ていた私の事を汚いとか臭いとか平気で言ってくる同級生たち。
その同級生の親たちも近づくなと言う。それに対して虐められていると言う認識がなかった。

自分は、悪口を言われても仕方ない存在なのだと思いこんでいた。

友達もいなく、父さえ、ほとんど家にいなかった。母の記憶も朧気にしか覚えていない。
それでも寂しいと思ったことはない。

 でも、今は、違う。

圧倒的に違うのは、養親と親友である『すばる』の存在。
今、こうして人の愛情を感じて初めて人との関わりの大事さや暖かさを知った。

 学校も転校することになり、受け入れ先の高校で編入テストと面談も済んだ。
しかし、学校からは、1つだけ条件が付けられた。

それは、私の正体を明かさないこと。
前の学校での知り合いとは、連絡を取らないように釘をさされた。
「人の口に戸はたてられぬ。ささいな事でも油断をすると情報が漏れて、あっと言う間に拡散するので十分注意するように」と学校長から注意を受けた。

それは、十分解っている。
知れたらどんな事になるか。
もう2度とこのような思いは、繰り返したくない。

しかし恩人であるすばるまで縁を切る事は、できない。
すばるに言えば悲しむ事は、わかっていた。
でも、校長の言う事にも一理ある。
どうして良いのかわからない。
心が揺れる。

でも、女性として生きて行く覚悟をした私にとってすばるの思いを受け入れる事は、タブーだった。
「しては、いけない事」として自分に言い聞かせていたのだ。
すばるには、感謝している。
でも今は、ここから抜け出すには、忘れなければと覚悟したのだった。

すばるには、メールで事情を連絡して別れを告げた。
当然すばるは、悲しんだ。
「ごめんね、すばる。貴方には、感謝している。いつかまた会える日が来るまでさようなら」
「いつかって、いつですか? 誰にも言わないから会いたい」
私も悲しい。
でも、今は、忘れなければ前へ進めない。
そんな気持ちで別れを告げた。

学校生活も過去の友人関係も消し去りスマホの電話番号も変えた。
でも、どうしても消せないのは、ネットに拡散された私の顔写真だ。

弁護士の父は、法的手段を使いネット管理会社や投稿者にお願いをして削除を依頼してくれている。
しかし、削除しきれないネットの記事は、いつまでも残ってしまう。
インターネットの世界に刻まれた『デジタルタトゥー』として亡霊のようにつきまとう。

 こうして、7月上旬に転校初日を迎えることになった。
母に連れられてその校門前に着いた。

『千葉県立香月高校』の学校名盤がレンガ作りの校門に掲げられている。
校庭の木々には、青葉が茂り花壇には、紫陽花が青く色づいている。
早朝の校門には、紺色ブレザーの制服を着た生徒たちが入って行く。
高まる不安で押しつぶされそうな心臓。
校門前で足がすくんでしまった。

校門前で立ち止まる私を見て母が振り返る。
「大丈夫? 夏音」不安そうな顔で見つめている。
私は、大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
「大丈夫」
もう、今更元へは、戻れない。
いや戻りたくない。
そんな気持ちで意を決したように校舎に向かう。
母は、不安そうに後を付いてくる。

 私のクラスは、2年3組だった。その教室前に担任の前田先生に連れられて廊下で待つように指示された。

静かな廊下には、だれもいない。
教室内で先生が出席を取っている。

その待ち時間は、数分の出来事なのだが私には、とても長い時間に感じられた。
これから待ち受ける自己紹介。
何を話したら良いんだろう。
前の学校のことは、話せないし。
そんな思いが頭を駆け巡る。

「かのんちゃん、入って」と先生に呼び出された。
教室に入ると皆が私を見つめている。

初めての教室は、静まり返っていて私に集まる視線を感じ体が凍りつく。

もう、頭の中は、真っ白だ。
教壇脇に立ち尽くす私に先生が自己紹介を促す。

「…… あのー、川谷夏音です。夏の音って書いて『かのん』って読みます。でも夏に生まれたわけじゃないんですけど……、よろしくおねがいします」
何を言っているんだろう? 
自分でも何をどう話したらいいかわからない位緊張していた。
自己紹介が終わると教室一番後ろの窓際に座らせられた。

 席につくと緊張感から開放された。
窓際に座ると外の景色がよく見える。
教室は、二階で窓から下に青く茂る桜の木が見える。
花壇には、紫色に染まった紫陽花が見えている。

数日前には、暗黒の世界に引きこもっていた自分が今ここにいる。
やっとの思いで手に入れた安息の時、一時の安らぎなのかも知れない。
でも、この安らぎが長く続くことを願わずにはいられなかった。
過去のことは、誰にも知られないように、できる限り周りとの接触を控え空気のような存在になろう。
そう、心に決めていた。

 休み時間になると早速、クラスの女子数人が周りを取り囲んだ。
「ねえ、川谷さんってどこの学校から転校してきたの」
想定していたことなのだが返事に困った。言えない。

「その…… 田舎の高校で、お父さんの仕事の関係でこっちに引っ越してきたものだから」
なんとかごまかそうと思った。

「井中野高校って聞いたことないわね。どこ、その高校」
完全に勘違いだ。隣の席に座る男子が笑ってる。
「ばか、それ田舎にある高校のことだろ。井中野高校じゃねーよ」
まわりの女子たちがクスクス笑っている。

そこに数人の女子を従えた一際精悍な顔立ちの女子がやってきた。

すると周りの生徒達がスッと消えていく。

私の前に立ち、
「はじめまして。私、学級委員の柿崎春香です」
その堂々とした立ち振る舞いに私は、緊張してしまった。

「あぁ、私、川谷夏音です」と言いながら立ち上がる。
「夏音さん、素敵な名前ね。解らない事があったら何でも私に聞いてね」
優しそうな柿崎さんに安心感を覚えた。
「宜しくお願いします」と軽く会釈する。

隣の男子生徒がその様子を見ている。
その男子と柿崎さんと目が合う。
「おい、隆一。お前が川谷さんの面倒見てやるんだぞ、いいな!」と柿崎さんが命令口調で言う。
人が変わったような低い声で少し驚いてしまった。

一変する柿崎さんの態度が何かに怒っているのかと思われた。
その隆一くんも驚いた様子で立ち上がり自分を指さして。
「へっ、俺が? 何で?」
「おめーよー、隣だろ。なんだ、文句あんのか?」
「ありません」
柿崎さんて、このクラスを仕切っているボスなのか?
「手、出すんじゃねーぞ。解ってるよな。んーおい!」
「はぁ、わかりました」
なんだ? 隆一くんは、言いなりか?
「そういうことなので、隆一君が面倒見てくれるので、何でも彼に言いつけてね」
態度が極端に変化する。
二重人格なのだろうか話し声まで変わる事に戸惑ってしまった。
「はあ……ありがとうございます」
すると柿崎さんは、高笑いをしながら2人の女子生徒を引き連れ去っていく。
驚いた。
今まで出会ったことの無いキャラクターだ。
「何ですか? あれ」隣の隆一くんに聞いた。
「ああ、あいつ自分の事、ここのラスボスだと思ってんだ」
「ラスボスって……?」
「誰もあいつには、逆らえない。逆らったやつは、皆、学校から退学している」
「……こわ!」
「あの、僕、吉川隆一。よろしくね」
この吉川隆一くんが後々大事な友達になるとは、その時には、気づかなかった。
「はあ、よろしく……」
一抹の不安は、増大していく。
こうして新しい学校生活が始まった。

    つづく