優しい地獄の始まりだった話
胸の内の、一番揺るがない場所に大切な約束がある。
ハンガリーはブダペスト。そのとき私は、ホステルで知り合った人と二人で王宮の夜景をぼんやりと眺めていた。眩く輝くくさり橋。街灯の琥珀色の光が何本も細く長くドナウ川の水面に伸び、ゆらめいていた。『きれー…』と子供みたいな呟きだけ残して見入ってしまった。ヨーロッパに単身で乗り込んで約10日目のことだった。
だまし討ちのような恰好で出た旅だった。
期間にして45日。航空チケットを予約しキャンセルがきかなくなってから『行ってくる』と家族にも友人にも報告した。暗に、誰が反対したところでもうどうしようも出来ないのだから諦めてくれ、という遠回しの念押しだった。しかし、そうは言っても出発まで3ヵ月はゆうにあったのだから、思い立って2日目にはニューヨークにいたあのときに比べれば随分マシだった筈だ。
けれども、結局多少の心配はされても反対はされなかった。
だから、どんなに些細であっても確実な安全を選ぶようにしていた。
完全に陽が落ちたら単独での外出は必要でない限り控える――日照時間の短い冬のヨーロッパではかなり行動の幅が狭まるルールだったが、信用という名の下に送り出して貰えた分の対価と思えば安いもののような気がした。
そんな中、ブダペストの宿で知り合った彼と偶然夜景を共に見に行けることになったのは、本当にラッキーな出来事だった。
くさり橋の辺りまで行くときも、歩くスピードはバラバラ。時々、思いついたように話をしてまた黙りこくってを繰り返し、ドナウ川のほとりに着いてからもしばらく二人で無言のまま景色を眺めていた。星屑を撒いたかの如く川面にたゆたう光の粒に圧倒されていたのかも知れない。何度かシャッターを切るように瞬きをした。
一人では絶対に来ることはなかっただろうから、一緒に来られて良かった、と言ったら彼は少し笑った。
傍にあったベンチへ座り、他愛もない話をぽつりぽつりとし始めたら、言葉が溢れてきて止まらなくなった。
仕事のこと、身体的にも精神的にもめげてしまった過去があること、旅に出るときの覚悟、親や回りの人たちが心配してくれることの有難さ、恋愛や結婚について、自分がこうありたいと願う理想像――会話を重ねれば重なるほど、今まで己の中で的確な表現が出来ず空白にしていた部分がどんどん埋まっていった。あのジグソーパズルのピースが次々とはまってゆくときに似た心地良さ! 彼の言葉はとても解り易く、彼もまた私の言葉を丁寧に拾ってくれた。
彼と私の意識の底にあったのは一種の諦観だった。この世にはどう足掻いてもうまくいかないことが幾つもあると、私たちはもう知っていた。それでも私たちはまだ希望を信じていたかった。今まで生きてきて潰されてしまいそうなくらいに苦しかったことさえも自らの糧であったと誇りを持っていたかった。
もっと若い頃に旅に出てこういう光景を見ていたら色々違っていたんでしょうか、と言ったら彼は、確かに考え方は今と違うものを持っていたかも知れないけど今の僕らのこの年齢で初めてこういうものを見るのはそれはそれでちゃんと意味があると思います、と答えを返してくれた。
「愚痴は、言いたくないんですよ。それが大切な人なら特に」
一瞬だけ黙り込んだ後、彼はそう呟いた。まるで、記憶の彼方の、過去の自分を諭すような言い方だった。
私も、愚痴は言うまい、と何度も心に掲げ実践しては躓いてきた。逆に他人の愚痴の集中砲火を浴びたことだってある。一時期は仕事以外では完全に口を閉ざし空いた時間の殆どを本と映画に充て、自分の中で言葉が飽和すると今度は眠りに逃げ込むという不健全な生活を送っていた。
「――でも、たまにだったら少しくらいはいいんじゃないですか?」
そうだ、何も言って貰えないよりは。
言いたくない、と己を厳しく律することは必要だと思う。行き過ぎた愚痴は時として暴力になるからだ。
だけど、何もかもを遮断してしまったら、行き場のなくなった心は膨らみ過ぎて破裂してしまうのではないか。
彼は私の言葉に、頑なに頷こうとしなかった。きっと、彼の中に譲れないものがあるのだろう。こういう人には、この世の中はすごく生き難いのかも知れない。ちょっとくらいの狡さを認めたって、罰は当たらないだろうに。
どんな仕事も、どんな出来事も、どんな人も、良いばかりでも悪いばかりでもないよね、と私たちは何度も言った。10年前――いや、たった1年前ですら、こんな風にドナウ川のほとりで夜景を眺めながら誰かと世間話をしているだなんて想像もしなかった。人生なんて、いつどこでどう転ぶか見当もつかない。
「僕は、人に優しくありたいとずっと思ってて、そして自分でもそうやれている、って最近は思えるんです。他の人から見たらどうなのかは解らないけど」
と、彼が夜景を見ながらぽつりと言った。私は、自分でそう思うことが出来るならちゃんとやれているということなのでしょう、と答えになってるのか何なのか曖昧な言い方をした。
人を傷付けることのない、けれど決して揺らぐことのないプライドをどう持てば良いのかは解らない。でも、美しい光景を心に収め、同じ価値観や想いを胸に抱く人とゆっくり話せただけで、もう、この先何があっても頑張れると思った。
「日本に帰ったらまた色々つらいことがあるかも知れないけど、そのときは今日のことを思い出して頑張りますよ」と言ったら、彼も小さく頷き、「じゃあ、ドナウ川沿いの誓い、ってことで」と微笑んだ。
紅茶に砂糖が溶けてゆくように、彼の言葉は私の中に優しく染み込んで、あんまり幸せで泣いてしまいそうだった。離れ難くて、いつまでもこの夜が続けばいいとさえ思った。でも、翌日には私はウィーンに発たねばならなかった。
帰り道、彼の名を呼び「また、どこかで会えるといいですねぇ」と言ったら、彼はあっさり「会えるんじゃないですか?」と事も無げに笑った。会えたら嬉しいねぇ、と笑い合いながらも頭の片隅では可能性は限りなく0に近いだろうと冷静に考える自分がいた。私には私の見たいものや場所があって、そしてそれは彼も同じで、私たちの行く先は全く別々の方向だった。連絡先を交換したところで、ちゃんと連絡を取り合うかどうかも怪しいのに。
もし彼も同じことを考えていたとするなら、『会えるのではないか』という台詞はきっと最大級の優しさだった。
ああ、どうしてこんな出逢い方だったんだろう。どうせ出逢うなら、日本でだって、もっと日常の真ん中でだって良かったじゃないの神様。
それでも、約束を貰った。
どんな状況に遭遇しても――譬えそれが逆境であっても、自分を見失わずしっかりと立っている為の約束を。
我ながら何て単純だ。たった、その事実ひとつだけで生きていけると心の底から思ってしまった。
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そして、ここから先、約10年ほどこの宝石みたいな記憶に縛られながらあれこれチャレンジして限界突破しまくって一時期は抜殻みたいになったりもしましたが、その頃に身についたスキルもたくさんあったので、あのとき出逢っておいてよかったと今でも思える人です。彼はこの後いったん日本へ戻り、またすぐに旅に出てモロッコからのメールを最後に連絡が来ることはありませんでした。どっかで元気に生きててくれればいいよ、それで。
まぁ、今思うとこのときも十分若かったな! 出逢う人たちが大学生とか年下が多かったから『みんな若いねぇ…』なんて話してたけども。
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