江戸城平川門の記憶
12月はじめの晴れた日、私は江戸城散策に出かけた。
目的は城門の撮影である。
今回訪れたのは平川門。
上の写真が平川門の外門。
平川門は江戸城の鬼門に位置する。
分かりやすく例えるとすれば、江戸城の裏門である。
上の写真は平川門の内門。平川門の外門をくぐると、内門が現れる。
正門は言わずと知れた大手門。
大名や旗本、といった家臣が参代するときにくぐる門である。
大手門の前に立つだけで、なぜか不思議な緊張感に包まれる。
監視されているのでは?という緊張感である。
大手門が公的な門とすれば、一方で平川門は私的な門である。
平川門は外出した奥女中の通用門であるほか、死者や罪人を運び出した不浄(キレイでない)門だった。
(Wikipedia「平川橋」より)
東京メトロ東西線竹橋駅からの最寄りの江戸城の門になる。
興味ある方はぜひ訪れていただきたい。
平川門(不浄門)のエピソードを一つ。
これは公的な資料でなくて、『藤岡屋日記』という江戸末期の記録に残されている事件であるのだが・・・・・
嘉永元年(1848)11月28日。
不運にも死後、布団で巻かれて、江戸城平川門から運ばれた旗本がいた。
名は松下伝七郎。
十二代将軍家慶の側仕えである。
石高は900石で、旗本としてはランクが高いほう。そして将軍の側使えであるので、エリートコースに乗った人であった。
11月27日の冬至の夜。
宿直の家臣を集めて、将軍家慶公は酒盛りをやっていた。
・・・・・ただ、度がすぎてしまった。
家慶公に酒を飲め飲めと勧められて、言われるがままに飲んでしまった松下伝七郎は、
酒の飲みすぎで気分が悪くなり、便所に行ったきり戻らなくなった・・・・・。
翌日、迎えに来た松下の家臣が主君を探しても、探しても会うことができなかったため騒ぎになった。
便所に行ってみると、何か様子がおかしい。
そこで、板を外し、便壺をのぞいてみると、
何と
便のなかで溺死している松下伝七郎がいるではないか。
江戸時代の武士ほどメンツを大切にする人種はいない。
まさか「便の中で溺れてお亡くなりになった」だなんて、天下の旗本が言われたくない。
そこで、表向きは「病死」ということにして、
松下の遺体を隠すようにして平川門より運んだのである。
今回の一件は明らかに将軍家慶の、度が過ぎた酔狂である。
他の側使えより、家慶公は苦言を言われた。
「たいがいになさいませ」というように。
家慶公はこの言葉を素直に受け取り、不憫であった、と思いを述べた、
としている。
( 上の写真が平川橋 2020年12月1日 冬月智子撮影)
私がこのエピソードを通して言いたいのは、
江戸時代の身分制度の残虐な側面である。
将軍家慶公は諸説あるが、松平春嶽には「凡庸の人」と称された。
すべてにおいて凡庸だったとも言い難いのだが、
幕政について、家臣の案に「そうせい」(そのようにしなさい)とだけ答える様子からは
「そうせい様」と城内であだ名された。
しかしながら、このような「悪評」がたったとしても身分制度のトップに位置する将軍をやめさせる、というわけにはなかなかいかないのが江戸時代の状況であった。
このような「凡庸」将軍の言いなりになり、命を落としてしまった側役の松下伝七郎。
悔やんでも悔やみきれない、というのが心ある人の本音である。
さて、時は過ぎ、慶応4年。
幕政が朝廷に返還されて明治元年になると、
これまでの身分制度は少しずつ解体されるようになる。
(ただし少しずつ)
世の中をより良くしようとした先人たちの努力があって今がある。
まだまだ、江戸時代の名残をとどめている現代ではあるが、先人の努力があって今がある。それに感謝したい、と思う。