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#BFC4 一回戦Cグループジャッジ評

公式による結果公開に伴い、第四回ブンゲイファイトクラブ、第1回戦Cグループ作品に対するジャッジ評を公開します。

ジャッジ: 冬乃くじ

中野真「三箱三千円」 4点
キム・ミユ「父との交信」 2点
〇 奈良原生織「校歌」 5点(勝ち抜け)
谷脇栗太「神崎川のザキちゃん」 4点
匿名希望「鉱夫とカナリア」 3点
わに万綺「坊や」 4点

総評


 どの作品も傑作であり、失点の多少はあれど実力は拮抗していた。ジャッジの判断は必ず割れ、わたしが選ばないものも違う誰かが選ぶだろう。ではわたしは何の基準で勝ちを選ぶべきかと考えたとき、作品にかけた時間で勝者を決めようと思った。
 かけた時間というのは、なにも執筆にかけた時間だけを指すのではない。あるテーマについて考え続ける書き手は、そのテーマの掘り下げが他の者より深くなる。文章技法を修行し続けた書き手は、文の深みやきらめきが他の者よりも秀でる。周りと違う価値観を抱え、それを表現することを諦めなかった書き手は、一読した皆を戸惑わせるものを書き、社会の価値観を揺るがす。作品内の情報について、代替不可能なものを探し続けた書き手の作品は、物語の必然性が他の作品よりも高まる。そしてもちろん、構想を練り、推敲を重ねた作品は、なによりも特別な輝きを放つ。
 そうした書き手の努力こそが、次の文芸の未来をひらくと信じる。だからわたしは、そうした書き手の努力に対して、最大限の敬意を表し、勝者としたい。

校歌

 すべての情報が必然であり、相似の関係にある。無用の要素が一切なく、寄木細工のからくり箱のようだ。あまりに理知的なつくりであるため、分析することがこの作品には最適かと思う。最重要モチーフは「ゴミ」である。ゴミとは、社会あるいは社会の一員から、ある機能を使い切ったとみなされた「状態」を指す名称だ。実際に使えるかどうかは関係ない。もう使えないとみなされた瞬間にゴミとなる。
 都会から、かりんの中学にやってきた美園先生は、26歳以上と推定される。外見は魅力的で、有名音大に入る実力もあった。(おそらくは同じ音大の生徒と)学生結婚をした。彼は海外のオーケストラのオーボエ奏者として働いている。海外がどこを指すか不明だが、母国のオケを選んでいないことから、ある程度著名なオケなのだろう。そうしたところで活躍するためには、完全実力の熾烈な入団試験をパスするか、若いころ(在学中)になんらかの成績を残しておく必要がある。美園が最初から教職を目指していたかどうかは提示されないが、華々しく生きるルートに乗り損なったことは確かだ。26歳以上で職務履歴が1年であることからも、迷走期の長さが伺える。院卒でないならば、就職活動に悩まされた期間も長いだろう。比して配偶者には所属する場所もあり、やらねばならぬこともあり、日本にいる美園と一緒にいる時間は短い。ゴミとして捨てられたオウムのポーチを美園が拾い、肌身離さず使っているのはそこにシンパシーを抱いたからだ。だが、一度でもゴミとみなされたものをネガティブに評する人は多く、作中の男子生徒も「きったねー!」と言う。オウムのポーチは美園の象徴だ。そしてそのオウムのポーチが道ばたにあるのを見て、かりんは「鮮やか」と感じる。
 かりんの周りは皆やらねばならぬことを持っている。弟はかりんよりもよい中学に入るため塾に通わねばならず、そのために母はパートをせねばならず、友達のめーたんは陸上部に所属していて練習をせねばならぬ。かりんとめーたんの関係は、美園と配偶者の関係と似る。かりんは自分特有の表情をめーたんにとられたが、仲が良いため「二人の物とする」ことで納得している。どこか喜びもあるだろう。美園が配偶者にとられたものは可能性だ(もし配偶者がいなければ一人分の枠があいたのだから)。配偶者と仲がよいうちは、かりん同様納得していただろう。だが「男の大学生」と親密に過ごす今は、おそらく納得していない。
 やることがなくて町のゴミ拾いに出たかりんと、生身の美園がコンビニの駐車場で出会ったとき、美園はポイ捨てをしてみせる。ポイ捨てとは、ゴミを社会的死に追いやらないための行為だ。ゴミの行く末は社会において決められているが、その入り口はゴミ箱あるいはゴミ袋である。だからその入り口に入れなければ、ゴミがゴミ処理場で死を迎えることはない。美園がカップ麺を投げつけた先には田んぼがある。整然と波打つ稲穂、つまり社会に向かって美園はゴミを投げる、だが社会は美園のいるところから遠すぎて、投げたゴミが届くことはない。
 運転免許証の更新を拒否した三年前から、自分を使えないとみなした社会に背を向けて生きてきた。不貞行為もポイ捨ても無免許運転も、のそみをのぞみと読むのも、ゴミを拾って自分の物とする行為さえも社会のルールに反している。その美園が、きれいな服のままコンビニの駐車場に座り込み、カップ蕎麦を啜りながら、「揃って礼儀正しく」揺れる稲の波を見ている姿は、かぎりなく切ない。
 めーたんが、もとはかりんの物だった表情を浮かべて見せ、100メートル走のスタート位置につくところで物語は終わる。めーたんを見るかりんのまなざしは、オーボエ奏者としてスタート地点に立った配偶者を見送る美園のそれと重なる。
 「校歌」というタイトルは、美園の苦しんだ三年間を指すと思われるが、これから始まるかりんの中学生活をも指す。「薫る三年(みとせ)を健やかに」という歌詞は、作者あるいは美園からの、かりんへの祈りだろう。美園がカップ蕎麦を投げたとき空中に描かれた放物線や「こういう人がポイ捨てするの」という歌うようなセリフは、胸がつまるほど悲しいが、きっとかりんの何かを変えるのではと思わせる。そういう解放感がある。
 どの要素を見ても整合性が高すぎるため、そこから出られない窮屈さを感じないわけでもない。だがそうした手蹟を気づかせない描写は見事である。ここまで必然性を高めることは、一朝一夕にはできない。初読の者に何かを残し、再読、再再読の者の心を掻き乱して離さない傑作だ。よくぞここまで磨きぬいた。勝者とする。

神崎川のザキちゃん

 余白の多い作品だ。最後に突然登場するザキちゃんとは何者か、町に起こった事件とは何だったのか、肝心なところが語られないかわりに、事件前後の町のノホホンとした様子が描写される。一読してわかりにくいので、再読を要する。
 物語に配置されたさまざまな描写から推測すると、ザキちゃんはおそらくは多摩川に住むタマちゃんと同じ、人間社会に迷いこんでなんとなく住みはじめ、町のシンボルとして共存している生き物だ。地域創生課の場面から推察するに、ザキちゃんはおそらく黒色の肌をしていて、トカゲの形をとっており、それなりに大きい。すくなくとも、川幅100mの水面から顔を出すだけで沿道にいる子どもの目に入る程度には大きいし、警官から石を投げられても平気なくらいに丈夫だ。事件が起こった日、町はスイカを待っていて、でもスイカは届かなくて、衝突音があって、空がよく見える詰所の二階にあったザキちゃん着ぐるみの頭のなかに、いつのまにかスイカがひとつはまっている。それから、なんだかわからないけれど町には見たこともない虹がかかるらしい。これはある程度想定された出来事である。
 そして(ここからは妄想の域に入るが)たぶんザキちゃんは巨大化する。巨大化することはなんとなく町に知られているが、はっきりとは知らされていなかった。朝、ザキちゃんが川からザバァと立って見たこともない虹がサァーと町にかかったとき、隣町の空港につく飛行機となんかトラブルがあって、そのせいでなんか元気をなくして、ついでにどっかからなんかのコンクリート片を道路にもってきて、衝突したトラックに積まれてたスイカを撒き散らして警察と一悶着あり、当然のことながらニュースになった。……でもザキちゃんは人間とは違う理屈で動いてるから、町のみんなからは愛されたままだ。よかったな。と、ほのぼのしてしまう。
 妄想たくましくしたわりには整合性がとれていないし、そもそも勝手な妄想パートが多すぎるのだが、だって書かれてないんだもの。分量は既定の枚数よりずっと短いし、作者はわざと書いていないんだもの。第一、世界はそんなに整合性が高いか? もっとカオスなんじゃないのか? だからもし、世界をあちこち見て回ったら、こういう「わかるようでわからんようでわかる」感じになるのではないか。だからもう、これは作者からの「楽しい材料を用意したからみんなで世界を妄想しようよ」という、とても明るい提案として受け止めたい。そう受け止めてもあんまり怒られない気がする。そういうゆるさが全編に満ちている。みたいなことを書いていたら、11/2の犬街ラジオで、作者本人が「これまでつくった短歌を膨らませてつないで書いた」とネタばらししていた。ぜんぜんちがったー! 巨大化ー!! おれの巨大化ザキちゃんー!! とは思ったが、まぁいいか。小説なんてどう書こうがどう読もうが自由でよいし、ザキちゃんは元気になったし、石を投げられても怒らないし、また一緒に遊ぼうと思って顔を出す。そういう作品もある。そんな作者の強い信念を感じて、胸を打たれる。

父との交信

 一番好きな作品だった。発想は面白く、運びもよく、ユーモアもあり、テーマは深く、身につまされるものだった。どうやっても勝ち点に選びたかった。だからこそ残念でならない。この作品がこの状態で出されたことが。
 ラストのことだ。なぜ空欄を埋めなかったのか。「生前には一度も言えなかった言葉」という説明とともに空欄をつければ、読者にとっての最適解が心に浮かぶはずとの期待からだろうか。たとえ作者にどんな意図があったとしても、はらはらしながら父との交信を見守ってきた読者にとって、そこは絶対に読みたい箇所のはずだ。なぜ物語から逃げた? これほどまでに書ける才能をもちながら、なぜ最後まで物語と向き合わなかったのか? もしどうしても適した言葉が浮かばなかったのなら、今年の応募は見送る勇気をもつべきだった。それほどの自信を持つべきだった、自分の書く物語に対して。残念で、悔しくてならない。最後の最後にこんな、作者の逃げを見させられるくらいなら、ラスト数行カットして突然終了された方がよほどマシだった。馬脚をあらわすことが必要な作品であったとは思えない。これはそういう作品ではない。悔しくて言葉が出ない。残念ながら失点は大きい。

鉱夫とカナリア

 書き手はプロ作家かもしれない。もしプロでないならプロになるべきだ。この書き手なら何を書いてもおもしろく書けると思う。そう思わせるほど、文章がうまい。うますぎる。わたしのような者がたどたどしい言葉で評するのはかなり恐れ多いので、ここらで終いにしてしまいたいが、もしかして「えっ普通じゃない?」と思う読者がいるかもしれない(こういううまい文章はうますぎるので「普通」と思われることがある)ので、あえて解説してみると、まず冒頭がうますぎる。冒頭は三文で構成されているが、この最初の二文で、状況が把握できない読者はいるだろうか。いない。いないのだ、、!!! もちろんSFやファンタジーと違い、物語の文脈が現代のわたしたちに理解しやすい状況であることもある。だがそれだけではない。冒頭の短い2文に、時間的・空間的ひろがりを持つ情報が、これでもかと詰まっているからだ。
 1文目に含まれた情報はこうだ。現れた男性が過去に炭鉱夫であった(=①過去の説明)今は高齢で声はしわがれ案内役をしている(=②現在の説明+炭鉱にいるのかもしれないと思わせるので③場所の説明+案内役がいるなら聞き手もいるので④その場にいる人数の説明)優しい声だ(=⑤人格の説明)ウェールズ訛りがある(=⑥過去から現在に至るまでに住んでいた場所の説明)。そして2文目、クラスメイトの一部は先生に見えないところで(=⑦その場にいる人々の説明を補強。案内を受けるのは語り手をふくむ学生たちと先生、よって⑧状況はおそらく社会科見学)、案内役の訛りを笑いあう(=⑨一部の学生と先生と語り手の態度が違うこと、⑩都会からきたこと、⑪一部の学生の人格の説明、⑫若さと結びついた傲慢さの描写)。
 という具合に、12種類もの情報が、この短い2文で読者の脳に叩き込まれるため、すべての読者に状況が伝わるのだ。しかもわざとらしくなく!! こうした芸当は誰もがやすやすとできるものではなく、文章修行を積んだ者にしかできない。そうして培われた芸が、あらゆる箇所につめこまれ、案内役を先頭に坑道を歩く学生たちとともに、読者は誰ひとり間違いなく物語世界をすすんでいく。そして作者の思惑通り、同じところでひっかかり、同じところで感動できる。案内役からライトを消すように指示され、闇に放り出されたときの心細さ、身を守るものを纏わぬときの剥き出しの心のありようを、読者は一緒に体験できる。元の世界に戻ってきたときは共に安心し、目には世界の鮮やかさを感じただろう。おそらくはこれまでたくさんのカナリアを死に至らしめてきた老人の、せめてもの償いのような生き方に心潤わせた読者もいただろう。ラストの余韻もいい。細部の目配せもことごとくうまい。とにかくうまい。うますぎる。
 だが……。である。案内が過ぎるのだ。「炭鉱の社会科見学」という題材のせいなのかもしれないが、作品を読むときの感動がどうしても受動的で、最後までそのありようが変わらなかった。読者たちが回収されたスマートフォンを再び手に入れ好きなアプリでも開こうものならたちどころに元通りの生活になってしまう、そういう案内された感動になってしまっている。この、読者を信頼していない感じ、言い換えれば作者が読者を支配しようとする感じは、プロ作家であるあなた、あるいはプロ作家に一番近いところにいるあなたは、いつか克服するべき点なのではないか。もう、正直に言って、こんなに書ける人にこんな苦言を呈するのはどう考えてもおこがましくて胃が痛くて本当に言いたくないのだが、それでも言わなければならない、選者ではなく、一個人として。言います。わたしは、自発的に感動したかった。ずっと案内されて指示を受けて、たしかにとてもよい体験ができたのだけどそうじゃなくて、自分で自由に歩く時間も欲しかったのです。すみません。本当にすみません、でもわかってほしい。この、しがない一読者の声を聞いてほしい。そして新しい作品をまた読ませてほしい。あなたは本当にうまいから、きっとそういう読者に向けた小説も書けるはずです。そしてわたしを読者にしてください、望まれた読者では、ないかもしれないけれど……。楽しみにしています。

三箱三千円

 読むたびに泣いてしまって、評が書けない。若いとき、欲しくてたまらないただひとつの愛が得られなくて、何をどうやっても得られなくてただ消耗して追い詰められて、なぜここまで欲しいのか本当は何がしたいのかもわからなくなって、終わりにしたいのに終わりにできないときの心情が、おそろしいほど切実な筆致でつづられる。ラスト付近の「何か変えられた?」というセリフは一見陳腐だが、冒頭で主人公が煙草の煙を「夜明け前の空の色」と描写された小説を読んだことがある上で、そうした自分由来ではない言葉を口にしたい自分に羞恥心を感じたり、「陳腐で頭の悪い現実」に直面させられ続けていたりすることを考慮すると、神崎が「何かを変えたい」と言ったことがあったのかもしれない。それが二人の共通の思いで、だから最初につきあうことになったのかもしれない。結局神崎のことは変えられなくて、神崎と同じ状態に変えられたのは「僕」本人で、「生きることは気持ち悪い」と思う。けれども「僕」は、今が夜明け前であることを知っている。そう思える知識の積み上げがある。神崎はそれを理解していただろう。金属バットでコンビニ強盗をやらせても、三箱と三千円しか強奪できない「僕」を神崎は嫌いではなかった。でも神崎は朝まで親の帰らない鍵の壊れたアパートに住んでいて、「僕」とは住むところが違うのだ。いかに思いあっていても、二人は決して一緒にはなれない。
 絶望と切迫感、他人から見れば「鬱陶しい誰かの主観」でしかありえないものを、見事作品として昇華した。その執念は称賛に値する。この作品を必要とする読者は多いはずだ。

坊や

 小説を読んでいると、友達になれそうな小説と出くわすことがある。文章の底を流れる価値観が自分と似ていたり、やたら共感できるキャラクターが物語のなかで幅をきかせていたり、文章のリズムが自分の生きる呼吸と似ていたりするとき、そんなふうに感じる。この作品はわたしにとってそういう作品で、このグループの中で一番自分に近い。作中人物に悪意がない。いいね~。愛を信じている。ぐっとくる。なんか魔法。楽しい! ハッピーエンド。大好き!!! となる。ので、よかったよ~~!で終わらせたい気持ちでいっぱいだ。今。だっていいんだもん。こんな坊やに頭ぐりぐりされたらめちゃ可愛じゃん。幸せだし最高じゃん。
 だけど気になるところもある。一番気になるのは、技法的に、作品全体から見てバランスの悪い箇所が散見される点。たとえば途中「最後は何と言ったのだろう?」と神視点が主張する必要はあるだろうか。ほとんどここだけなので浮いている。いわゆる語り手を意識させるなら、もっとちりばめるべきではないだろうか。最初と最後だけでもいい。語り手が現れること自体は歓迎というかむしろ好きだが、いかんせんバランスが悪い。「魔女は思った」という、登場人物の内心を神視点で語る文が一文だけなのも気になる。こういうふうに浮いた表現が点々とあると、すらすら読めないだけでなく、推敲漏れのようにも見えて、せっかくのファンタジー空間に作者の顔が出てしまう。
 原稿用紙六枚で優しい語りのファンタジーをやろうとすると字数足りなくてきつい、ということは身をもって知っているので強く言えないのだが、こういう脇の甘さはあまり見せないほうがいい。なぜかというと、そもそも善意オンリーというバランスの悪すぎる世界を納得させるためには、技法においては完璧にしておかないと、無駄なアンチが現れる、から!!!「この少年、全く能動的に動けてないよね?」「てか子どもってこんな素直だけじゃないよね?」「この作者、ちゃんと人間描けてる?」みたいな!!! そこを「うるせえ全部わざとなんだからこれでいいんだ!」とはねのけるためには、そういう隙を見せてはいけない(と思う)のです。そんな経験を経て、この少年は針を纏うようになったのかもしれない。か、かわいそう……。まぁそういうことです。
 ともあれ、こういうホンワカした気持ちで終わる小説はなかなか書くのが大変で、そこが成功しているのは素晴らしいことだし、呪いのかけられ方など細部の描写も丁寧かつおもしろかったので、よかったよ~~! 以上! 



※ 追記

ブンゲイファイトクラブ公式に載った「校歌」評の中では、オウムのポーチとインコのポーチが混ざって書かれています。これは本編内で作者のうっかりにより混ざっていたうえ読み手のわたしもぜんぜん気づかず、同じものと捉えつつ参照した場所によってオウム、インコ、と両方書いていたゆえです。ワァ。うっかり作者&読者。(このnoteの記事ではオウムに統一しました)

平和がいいね。

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