#BFC4 準決勝ジャッジをジャッジ
公式の発表に伴い、ジャッジ採点基準を公開します。
担当:準決勝
ファイター:冬乃くじ
冬木草華 4点
岡田麻沙 3点
白湯ささみ 5点
〇 虹ノ先だりあ 5点(勝ち抜け)
■採点基準
ジャッジを採点するにあたり、考慮した点は以下のとおり。評をつける行為とは、自らの視点と向き合うものであるが、そのときの姿勢がナルシスティックに過ぎないかどうか。自分よりも作品を見ているか。未知の存在と対峙したときにどんな反応を示しているか。文芸の未来を見ているか。最終的に、以下の点を高く評価する。わたしが望む文芸の未来を連れてくる人。
■総評
今回の準決勝に残ったジャッジは全員、この採点基準による失点がなかった。非常に成熟したジャッジ揃いであることは間違いない。このレベルまでくると、ジャッジ本人の根底に流れる「読み方」や「判断」の傾向はもはや俎上にあがらず、ただ「今回の準決勝でたまたま並べられた作品群といかに邂逅したか」というところでしか判断ができない。そのため「この4名の今回の評をあえて比べるならば」という相対評価にならざるをえなかった。
各4名の各4作品への評をすべて検討したが、4者とも拙作「あいがん」への個別評があまりにも素晴らしかったため、今回だけはそれを中心に触れさせていただきたい。ある意味で、評自体を文芸として向き合う初の機会となった。このような機会をいただき、感謝の念しかない。(以下敬称略)
冬木草華の評は、どの作品においても分析・解説を試みており、「作品を読んでみたけどよくわからなかった」読者にとって助けになる評だった。拙作については、「箱」のモチーフを「ひとつの空間におけるルール、秩序」として読むことで、すべての因果をわかりやすくほどいた。「掬いきれなかったという印象を強く感じるほど底の知れない作品」としながらも、かなり真に迫った評となった。BFC4一回戦ジャッジ評や、過去に遡ってBFC3のときの評から感じていた「バランスのよさ」と「作品との適度な距離感」には安定感があり、個々の作品の構造を掴む手腕には信頼がおけると思われた。
岡田麻沙の評は、いずれも作品紹介として完成度の高い評だった。拙作に対する「生々しい感情を描きながらも、断罪の手つきはここにない。生き延びること、その両義性だけが示される。高度な乱れ打ちのなかに、呪いと祝福が共存する。」という評は短い中にも核心をついており、感受性と文章力の高さを伺わせた。
だが本人が告白する通り、今回は作品との距離感が近すぎて抜け出せず、作品群に翻弄されたであろう痕跡が見受けられた。一回戦ジャッジの際はある程度の距離を保った見事な評を書いていたので、これは作品とのめぐりあわせだろう。「読めない」と思ったものをあえて評価するという姿勢そのものは大いに買いたいところだが、作品群に翻弄された文脈を加味すると、投げだしたようにも読めてしまう。他者(佐々木中)の言葉を引用して「こういうことなんです」と降参するやり方は、その正直さに好感は持てたが、選評としての説得力に欠けた。
白湯ささみの評はエキサイティングだった。感受性の豊かさに加え、短い言葉で出力する能力に優れている。無関係の読者を巻き込むエンターテイナーとしての力だけでなく、評自体を文芸として読ませる力もある。
拙作評においての、「抑圧と抵抗をめぐる『わたし』の葛藤は作中のあらゆる物や情景に投影され、融合と分裂を繰り返す。本作を読んだときに読者の中に生じる混乱は、設定上の穴や説明不足から来るものではなく、作者が緻密な計算のもとに創造した『混乱に満ちた作品世界』に嵌められていることの証左だ。」という箇所、あるいはタイトルに対しての「『愛玩』はペットや物に対して使う言葉で、相手を人格のない『愛の入れ物』として見ていることを示している。だが果たしてそれを『贋』の愛だと言い切れるだろうか。歪な形であっても愛は確かに『含』まれているし、私たちは誰かを愛したいと『願』うことをやめられない。」という箇所は出色の出来であり、読み込んでもらえた嬉しさに、一作者として心震えぬわけにはいかなかった。
さらに言えば、これは一回戦ジャッジから通じるところであるが、「なぜこれを選んだか」が明確に書かれており、この強さは選者として必要な資質であるように思われた。
虹ノ先だりあの評はクリアだった。感受性の高さや作品紹介としての完成度の高さは言わずもがな、読み方の可能性を探る手つきや、作品自体の可能性を検討する思考の流れまでもが、明確に出力されている。一回戦ジャッジから一貫して見受けられる、作品を味わいつつ可能性をも指し示す、いわば遠くまで見通す能力は4者のなかでも抜きん出ている。
拙作評でも、「話せないゆえに起こるディスコミュニケーションと、話せるのにも関わらず起こるディスコミュニケーション」を始めとした諸要素や仕組みを巧みに読み解き「混乱を抱えた主人公を中心に据えながら、母の支配、犬の死というふたつの軸とその周辺をまとめ上げている」とした分析は見事であり、「最後の母からのひなぎくの写真をどう受け止めるか。」以降の読み解きは、作者自身も知らないものを教えてもらい、感謝の念しか浮かばなかった。
また、エンターテイナーとしての能力も高く、無関係の読者を引き込む力が強い。(Twitterという場外での狂乱ぶりもかなり見物だが、それはさておき評としての)エンタメ性はジャッジされる側からしても魅力的だ。一回戦ジャッジでは拙作「サトゥルヌスの子ら」で、作品のよさと弱さについてなかなかの説得力で提示されたうえ「父親を引き裂きかわいい2点」で〆られ、点数低くて悔しいのと笑ってしまうのと結構正しいから認めざるを得なくて悔しいのとで感情がめちゃくちゃになったが、今回の拙作「あいがん」では「ただただとってもかわいい5点」をいただいて、素直に嬉しくなってしまった。点数が低くても高くてもあまり嫌な気持ちにならないのは、作品を読み込んでいるのが明確に示されていること、失点の理由が明確であると同時にその正当性の説得力が高いことが理由だろう。
この段階で冬木草華、白湯ささみ、虹ノ先だりあの評が「選評」として一歩リード。さらに「どこを評価し、どこを失点としたか」がより明確な、白湯ささみ・虹ノ先だりあの一騎打ちとなった。
ブンゲイファイトクラブにおいては決勝ジャッジの評が最後の華となる。どちらに任せても、最高のフィナーレを飾ってくれるだろう。特に白湯ささみの文章力はかなり高く、ブンゲイファイトクラブに参加してきた観客、ファイター、ジャッジたちの心を相当エモくしてくれるはずだ。この段階で白湯ささみを勝ち抜けに決めた。
だがその後、何度も読むうち、「編纂員の夜勤」評が気になってきた。何が気になっているのか、途中でわかった。白湯ささみ・虹ノ先だりあは、双方「編纂員の夜勤」に対し不足分を認めて失点をつけているのだが、その失点をつける際、虹ノ先だりあは「不足と思われるがどのように読めば不足にならないのか」を可能な限り検討し、その経緯を明示していた。白湯ささみも種々検討したのかもしれない。だが書かれていない。書かれていないことをどう捉えるか。
どう読めば不足にならないのかを追求する姿勢とは、作品を信頼している者の姿勢だ。作品に信をおくからこそ、可能性を検討するのだ。その時今回は無用の長物として脇に置いていた、我が「採点基準」を思い出した。「文芸の未来を見ているか。最終的に、以下の点を高く評価する。わたしが望む文芸の未来を連れてくる人。」未来は可能性によってひらかれる。可能性を検討する思考を、わたしはもっとも評価したい。よって、虹ノ先だりあを勝者とする。
以上
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