『ぼくが生きてる、ふたつの世界』を鑑賞して思ったこと。
2024.09.23鑑賞。私は元々吉沢亮さんが好きで(笑)、だけどそれだけの理由で、この映画を観ようと思ったわけではないのです。
好きな俳優さん、そして吉沢亮の演技力、それから芸術においての障害者ビジネス、さらに加えて予告から溢れるほど感じ取れる温かさ。きっとまだまだあるけれど、様々な要素が集まって、「この映画を観よう!」とかなり前から決意していました。
全部見終えてラストから言うと、素晴らしかった。
何が素晴らしかったって……。
1つひとつ触れていこうと思います。
主人公は、聾者の両親を持つ青年、大(だい)。
幼少期から耳の不自由な両親(特に)母をサポートするが、ある程度の年齢まで、彼にその概念はなかった。母の特性が、自分に取って「普通」であり、日常だった。序盤は笑顔多く母と戯れ、母のことが大好きなのだと伝わってくる。恐らく、とても頭が良く、優しい子供だったのだと思います。
だけど思春期突入と共に、大の母への態度は一変する。自分の「普通」が普通ではなくなり、両親も普通ではないことに気付いていく。(ここでは敢えて特性とは書かず普通と記す)
周囲の視線が気になり、幼少期は無邪気にできたサポートができなくなり、母の無邪気にはもっと苛立つ。
私は大が、優しい若しくはケアラー気質があるが故に、このような変化が顕著だったのだと思っています。
優しいのは良いことだ。それでも大の人生は、父や母のケアで終わってはいけない。それを大は、藻掻き苛立ち葛藤しながら自分で気付き、東京へ行くことを決意する。
ここでお母さん。お母さんがまず良いんです。
大にかなりひどいこと言われても(こんな家生まれてきたくなかった、とか)、イライラマックスぶつけられても、凹むけど基本引きづらない。ちょっと判断難しいけれど、障害を乗り越えてなのかそもそもの素質なのか、とにかく明るい。
途中、高い補聴器を相談なしに購入し大に怒られるのですが、全然気にしない。
蛇足ですが筆者の母も足が悪く、めちゃくちゃ心配した学生時代~今に至りますが、当事者ほどケロッとしてるんですよね。それがまたイラッときたりして(笑)
話を戻すと明るくチャーミングなお母さん、大を心配しながらも、東京行きを応援します。
次にお父さん、お父さんもこれまた良い。
お母さんとはまた種類が違う明るさ、拘らなさ、さっぱり感、無自覚だろうけどユーモアもある。大はお父さんとだと、手話を使って自然に話せる。
筆者的には、この差をこのように考えています。
大にとって、お母さんの方が、「守らなきゃ」と想う存在だったんだろうな、と。
またまた話を戻すと、お父さんも大の旅立ちを応援します。
大は東京へ行き、様々な人と出会います。
聾者の人、健常と呼ばれる人。
関わる中で大にとって障害が何だったのか、家族が何だったのか、自分は何になっていくのか、考えることは山積みになっていきます。でも、それらと大はしっかりと向き合い、自分の形を作り始めます。
映画終盤、大が、「俺、こうなりたいみたいなのがないんすよ」と発する場面があります。勤めた会社の上司たちの前で、そう話します。
これは正直、筆者ははじめ、なんとなく聞き逃していた。けれどこれが実は私的に、物語の本質ではないかと考えている。なぜかと言うと、障害に埋もれて見落とされがちだけど、自分の未来を描けないということは、つまり誰かのために生きてきた証拠であることも意味するから。機能不全家族で育った大人にも言えることである。大の家族がそれに当てはまるかは分からないけれど、社会問題に通ずるテーマを、障害のテーマと併用して描ききったところに、私は巧みさを感じている。
そして本当の本当のラスト、筆者の見解だと、大はまだ明確に、自分や自分の未来を捉えていないように感じた(もちろん誰しもそんな簡単にできることではないし、私だってできていない)。けれどライターという1つの仕事に就き、家族だからとか仕事だからとか関係なく、自分の意志で聾者と関わっている姿を見て、間違いなく大は、自分を1つ見つけたのではないかと感じている。
ここからは、観た人全てが胸を打たれたと言っても過言ではないシーンだと思いますが、簡単に触れます。
父親が病に倒れ大が一時帰郷する場面。父を見舞ったあと、東京に戻ろうと母と2人駅に立ったとき、大は数年前の母との会話を思い出します。
吉沢亮の演技の真骨頂と演出とお母さんの言葉、全てが合流し、泣くしかありませんでした。
本当にたくさんの人に見て頂きたい。
最後の演出、一瞬音がなくなるシーンは、私的には「大」の方の感覚なのかなと、考えることがあります。母のために必死に手話で話す最中、もしかして大の中でも、音は消えていたのではないか……と想像してしまうのです。
最後に書いておきたいこと。
この映画は、美しい。
障害とか聾者とか関係なく、とまでは言い切れないが、ある家族、ある青年の人生の一部を、飾らず瑞々しく泥臭く柔らかく、切り取った作品でした。だから美しくなった。
お母さん側の祖父母は手話使っていないところも興味深い。どういう気持ちでそこに至ったのか、障害を認めたのか、諦めたのか、関わらないとしたのか。分からないけど、それも含め、美しいんだと思います。
吉沢さんの演技力は、手話を使った演技云々の前に、手話の方が吉沢亮の演技に引っ張られている感覚。聴者と聾者の手話の表現方法の差もよく表されていたよう感じる。AWAKEという映画を観たときにも思ったが、吉沢さんには不自然さがない。いや、不自然さも演じているように私には見えて、元々好きな俳優ということを差し引いても、頭が良く演技力が高い方だと思っています。
忍足さん、今井さんの唯一無二のチャーミングな演技も、作品全体を温かいものへと導いていました。
で、ほんっとーのラスト、エンディングでやられますので、これから観る方は覚悟して頂ければと思います。
今年のアカデミー賞は、主演男優は吉沢亮、横浜流星(正体)、磯村隼斗(若き見知らぬ~未鑑賞)、役所広司(八犬伝~未鑑賞)とかあたりでしょうか……。松村くん(夜明けのすべて)も入ってくるか?
私は吉沢亮を推します。正当に演技力で評価して。終わり。