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冬暁ノスタルジア #04

第四章 曇り空の下で

 週末の朝は、灰色の雲に覆われていた。空気が湿っているわけでもないのに、どこか肌にまとわりつくような重さがある。マンションのリビングで、詩流(うたる)はテーブルにノートパソコンを開いたまま、ぼんやりと考えごとをしていた。
 ディスプレイには、彼が運営するガジェット系ブログの編集画面が映し出されている。もともと二日おきに更新すると決めていたが、ここ数日は気力が湧かず、投稿が滞っていた。

「……書かなきゃいけないのにな」

 詩流は小さく呟き、ソファに寄りかかる。遠くから聞こえるのはテレビの音なのか、誰かの生活音なのか――曖昧な都会の響きが耳をくすぐる。

 そのとき、キッチンから真琴(まこと)が振り返った。ぽっちゃりとした体型の彼女は、タレ目が特徴的で、今はエプロン姿のまま手を止めている。

「うたる、無理しないでね。ブログはあなたのペースでいいと思うよ。……もしかして体調が良くない?」

 彼女の声には、本気で案じる色が混じる。昨晩から詩流の表情が冴えず、言葉少なげになっていることに気づいていた。ここ数日、うつ病特有の気分の落ち込みが強まっているのだろうと、真琴は薄々感じていた。

「うん……。なんだか、デザインの仕事も少し行き詰まってて、ブログ書く気力もないっていうか。頭の中が真っ白なんだ」

「そっか……。だったら、一度気分転換に出かけてもいいかもしれないね。最近、在宅ワークが多かったし」

 真琴はそう提案しながらも、詩流の足元に視線を向ける。血栓症のリスクを抱える身体は、長時間の移動や歩行に負荷がかかる可能性がある。どこへ行くにしても慎重に考えなくてはいけない。

「たとえば近くのダーツバーで軽く投げるとか、喫茶店でコーヒーを飲むとか……。無理のない範囲で気分を変えられたら、少しは落ち着くかも」

 真琴の言葉に、詩流は苦笑を浮かべる。ダーツバーは確かに二人の息抜きスポットだが、昨晩も軽くめまいがあったばかりだ。

「そうだね。ちょっと考えてみるよ……」

 そう言いながら画面を閉じ、詩流はリビングのカーテンを少し開ける。外は相変わらずどんよりした曇り空。ビルの合間にわずかに見える空は白っぽく、まるで太陽が行方を失っているようだった。


 昼近くになって、真琴は少し早めの昼食を用意した。たっぷりの野菜スープと、ミニピザをオーブンで焼いた簡単なもの。ぽっちゃり体型とはいえ、最近は健康に気を使いながらも好きなものを食べるというスタイルを貫いている。
 テーブルに並んだ食事を見て、詩流は思わず笑みをこぼした。

「ありがとう。……なんか、いろいろと助かるよ。食欲がないときでも、こういう軽めの料理なら食べやすいし」

「どういたしまして。私も食べるよ。今日は朝から変な夢見ちゃって、ちょっと元気がなかったし」

 真琴は自嘲気味にくすっと笑うが、どこか寂しそうな気配を漂わせている。タレ目のせいか、涙が滲みやすいのだろう。詩流はスプーンを握りながら、ふと彼女の横顔を見つめた。

「真琴……もしかして、なんかあった? 最近、少し落ち込んでるように見えるんだけど」

「え? ……ううん、なんでもないよ。ただ……私、昔を思い出すことがあって。男になりたいって悩んでた頃とか、家族との確執とか、そういうこと。今はあなたがそばにいるし幸せなんだけど、ふとした瞬間に昔の気持ちが甦って……。それで、不安になるの」

 彼女は声を落としながら言った。大きな衝突はもうない。それでも、心の中にはずっと小さな棘のようなものが刺さっている。詩流もまた、その棘を抜ききれずにいる一人だ。

「そっか……。僕も鳥取での過去を忘れられないし、家族とのこともあるから、わかるよ。そう簡単には消えてくれないよね」

 言葉を交わすうち、食卓を囲む二人の間に、ある種の連帯感がしみ込んでいく。傷は共有できないかもしれない。でも、お互いの痛みを知ろうとすることで、寄り添い合うことはできる。


 食事を終えたころ、詩流のスマホが短く振動した。見ると病院からの通知メールで、「来週の定期検査に関する再確認のお知らせです」との文言が目に飛び込んでくる。血栓症の経過観察や、うつ病の診察も含めて一度に行う予定だ。

「……そうだ、来週だったね。病院で、あれこれ検査を受けるんだった」

 詩流がスマホを置くと、真琴が真剣な表情になる。

「今回も血液検査とCTだったよね? もし何か悪化してるようなら、どうする? ホルモン注射を一時ストップしても……」

「それは嫌だよ。今さらもうやめられない。多少の副作用があったって、これまでやってきたことをいきなり中断したら、精神的にもつらいし……」

 詩流の声はわずかに震える。先行きが見えない不安と、自分らしく生きるために手放せないホルモン治療との間で、どうしても揺れてしまうのだ。真琴はその気持ちを理解していたが、同時に詩流の身体が心配でならない。彼女はそっと詩流の手を握り、優しく包み込む。

「わかった。でも、限界を超えそうなときは無理しないでね。私もできる限り支えるから……」

「……ありがとう」

 ささやかな会話。しかし、その裏には大きな葛藤が横たわっている。数日後に迫る検査結果がどう出るのか、詩流も真琴も内心は穏やかではいられないのだ。


 午後の空は相変わらず低く垂れ込めた雲で覆われていた。やがて小雨が降り始め、ベランダの柵がしとしとと濡れている。二人はマンションのリビングで、各々の作業に戻りつつも集中しきれないでいた。
 そうして夕方を迎えると、外は次第に暗さを増し、遠くの空がわずかにオレンジ色を帯びるころには雨が止んでいた。

「……せっかくだから、少し散歩しようかな」

 詩流が立ち上がり、真琴に声をかける。気分転換をしたいという思いが強くなったのだろう。真琴も軽くうなずき、傘を持たずに外へ出る準備をする。

「近くの川沿いを少し歩くだけでも違うと思う。もしめまいがしたらすぐ戻ろうね」

「うん、ありがとう」

 エレベーターに乗って下へ降りると、マンションの出入口からは雨上がり特有の匂いが漂ってくる。アスファルトに残る水たまりが夕暮れの光を反射し、ほんのかすかな輝きを放っていた。どこからか子どものはしゃぐ声が聞こえるが、その姿は見えない。

 川沿いを歩き始めると、詩流は真琴の隣でゆっくりと足を運ぶ。ダーツで盛り上がった昨日とは違い、静かな会話しか交わさない。でも、無言が不快に感じることはなかった。むしろ、お互いの存在を確かめ合うのには、これくらいの距離感がちょうどいい。

「やっぱり外の空気、気持ちいいね」

 詩流は小さく息をつき、真琴の手を取った。彼女は驚いたように目を見開くが、すぐに微笑み返す。タレ目がいっそう柔らかく下がり、その瞳にうっすら涙が浮かぶ。それは悲しみの涙ではない。言葉にならない安堵と、詩流への愛情が入り混じった、静かな感謝の涙だった。

 曇り空の下、川面には街灯がぼんやりと映り込む。雨上がりの風はひんやりとして、時折二人の頬をかすめるように流れていく。何があっても、どんなにつらくても、今は手をつないで歩き続けよう――そんな思いが伝わるような沈黙が、そこには確かにあった。

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