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冬暁ノスタルジア #02
第二章 仄(ほの)かな温もり
夜の闇が白み始める頃、東京の街はゆっくりと目を覚ます。高層ビルの隙間からさしこむ光が、まだ浅い朝の空気を静かに照らしていた。
詩流(うたる)は、目黒区のマンションの寝室で目を開けると、いつものように胸の奥がざわつくのを感じた。布団の中はまだ微かに暖かい。隣には真琴(まこと)の寝息が聞こえる。彼女は一度眠るとなかなか起きないタイプらしく、今朝もすやすやと呼吸を整えている。
詩流は枕元の時計を確認して、そっと起き上がった。針はもう7時を回っている。窓の外をのぞくと、遠くのビル群の向こうにうっすらと朝焼けが残り、少しずつ日常の喧騒が動き始める気配がする。
ベッドから抜け出すと、血圧が急に下がったのか、頭がふらりと揺れた。ここ数年、特に女性ホルモン注射を始めてからというもの、めまいや体調不良に悩まされることが増えている。詩流は深呼吸をしてから洗面所へ向かい、鏡に映る自分を見つめた。
外見は“ほぼ女性”に近い――柔らかな頬のライン、少し高く整形した鼻筋。髪は肩下くらいのセミロングだが、今は寝癖で軽くハネている。顔色は少し青白い。かつての自分とはずいぶん違う姿になったものの、どこか心には一抹の不安が染みついて離れない。
「朝、か……」
つぶやきながら水を口に含む。行き場のない思考が頭の中を回り始める前に、歯を磨き、シャワーを浴びてリセットしよう――そう決めてバスルームのドアを開いた。
シャワーを終えてキッチンに立つと、ちょうど真琴が眠そうな目をこすりながら出てきた。寝癖だらけの髪を手ぐしで直しつつ、あくびをひとつ。
「おはよう……。なんだか寒いね。今日も天気悪いのかな」
「天気予報だと夕方から雨らしいよ。気温はそんなに上がらないみたい」
詩流はそう言うと、流しに置いてあるドリッパーでコーヒーを淹れ始めた。お互い、コーヒーが何よりの息抜きになっている。豆は少し深煎りのものを挽いて、蒸らすようにゆっくりお湯を注ぐ。ふわりと立ち昇る香りに、二人とも自然と肩の力が抜けていくのを感じた。
コポコポとお湯が落ちる音をBGMに、真琴はテーブルに座って小さく背伸びをする。
「朝にこうしてコーヒーの香りを嗅ぐと、なんだかやる気出るんだよね」
「わかる。僕もコーヒーがないと始まらないよ。ほら、できた」
詩流はマグカップにそっと注がれたコーヒーを真琴の前に置いた。湯気の向こうに、まだ少し寝ぼけ顔の彼女の姿がゆらめく。ふと、詩流の胸に愛しさがこみ上げてくる。自分自身がどんなアイデンティティであれ、こうして朝を迎えられることは当たり前じゃないと痛感しているからだ。
カップを手にした真琴は、ふう、と息を吹きかけて一口飲む。ほどよい苦味と香りが舌先を刺激し、目覚めきらなかった頭が一気に冴え渡るようだった。
「そういえば、今日はお互いに在宅ワークの日だったよね?」
「うん。俺は――じゃない、私はフリーランスのデザイン案件が溜まってるし、真琴もコールセンター、今日はテレワーク対応でしょ?」
「そうそう。最近はコロナとかの影響もあって、週に何回かは自宅から電話で応対できるようになったから助かってる。人混みが苦手だからね」
言いながら真琴は苦笑する。詩流もまた、大勢の人がいる場所は得意ではない。二人とも自宅で仕事をする機会が増えた今、部屋にはPCのモニターがいくつも置かれ、資料やメモ書きが散乱している。完全なプライベート空間ではなくなった気もするが、その代わり互いを気遣い合いながら生活できるのはありがたい。
朝食はあまり量を食べない二人。トーストとサラダを適当に済ませ、各々の仕事に取りかかった。リビングの片隅にあるデスクには詩流のデザイン用PCが並び、モニターに表示されたイラストソフトや広告のレイアウトがカラフルに映し出されている。顔の整形手術を終え、フリーの広告デザイナーとして独立してからまだ数年とはいえ、詩流はそこそこのクライアントを抱えるようになった。
一方、真琴は書斎代わりの小部屋にこもり、ヘッドセットを用意しながらPCを立ち上げる。コールセンター業務は電話越しの応対だが、勤務先のシステムにリモート接続するだけで、こうして家で対応できるのだから時代は変わった。
小部屋のドアが少しだけ開いているので、真琴の声が漏れ聞こえる。
「はい、お電話ありがとうございます……。お客さま、その場合は……」
穏やかな口調だが、仕事モードに切り替わっているのがわかる。詩流はうるさくないように気をつけながら、ペンタブレットを握り直した。
(僕も集中しないと……)
軽いめまいや肩の痛みが気になるが、仕事を進めなくてはならない。今日は12ページ分の広告デザインを仕上げ、クライアントに見せる予定だ。頭の中では女性ホルモンの注射スケジュールも気になっているが、まずは目の前の作業をやり遂げよう――そう自分に言い聞かせる。
鳥取県の会社でデザイナーとして働いていた頃は、人間関係や差別に追い込まれ、結局は退職して東京に逃げてきた。それでも、やっぱり自分にはデザインしか残らなかった。だからこそ、今こうしてフリーとして生きていることがどれほど幸運か、わかっているつもりだ。詩流はモニターに向き直り、無数のレイヤーを操作し始めた。
夕方近く、窓の外には予報通りの雨雲が立ち込め始めた。真琴が小部屋から出てきて、肩をぐるりと回す。どうやら一段落ついたらしく、少し疲れた表情でリビングのソファに腰を下ろした。
「ふう……。今日もけっこう大変だった。電話応対って相手の顔が見えない分、気を遣うしメンタルがすり減るよ」
「お疲れさま。少し休んだら? 俺も……いや、私もぼちぼち休憩しようかな」
詩流はデスクから離れ、ソファに移る。ペンタブを握りっぱなしだった右手は痺れるようにだるい。肩を軽く回すと、骨がゴリゴリと音を立てた。
「大丈夫? また調子悪いんじゃない?」
「そうかも……女性ホルモン注射の副作用が出始めると、体力的にしんどくなるんだよね。血栓のことも気になるし、あまり無理はしないようにしてるけど……」
詩流は自分の足首をさする。冷えると痛みが増すようで、食欲も落ちてしまいがちだ。先日は病院でもらった薬の値段が高くて、ため息が出たばかり。真琴はそんな詩流を心配そうに見つめる。
「今度の検査結果、どうなるんだろうね。あまり悪化してなければいいんだけど……」
「うん、そうだね。まあ、考えても仕方ないから、とりあえず仕事を片付けなきゃ」
そう言いながらも詩流の表情はどこか曇っている。血栓症のリスクが高まるという話を医師から聞かされ、以来ずっと気が気ではないのだ。それでも女性の外見を保つためにはホルモン注射は欠かせない――この苦しいジレンマを抱えながら、詩流は日々の生活を送っている。
やがて雨音が聞こえ始めた。窓に大粒の雨が当たり、窓ガラスを伝う水の筋がゆらゆらと街の光を歪ませている。時計は午後6時を指している。外はもうすっかり暗い。
真琴はリビングの照明を少し落として、スタンドランプのやわらかな光をともした。心を安定させるために、あえて大きな照明を消して間接照明にすることが二人の習慣になりつつある。パソコンのブルーライトに疲れた目を癒やすように、少しだけ穏やかな闇に身を委ねる。
「雨……。そういえば、うたると初めて会ったのも雨の日だったね」
ポツリと真琴がつぶやくと、詩流は何かを思い出すように天井を見上げる。
「ああ……あの新宿の雨の日か。なんだか懐かしいね。まだ僕が“見た目は男性”だった頃だ」
「けど、本質はあの頃から変わってなかったよね。むしろ何も変わってない。私も同じ。戸籍やら手術やら、確かにいろいろあったけど……大事なのはそこじゃないっていうか」
真琴の声は静かだが、にじみ出る優しさがある。詩流はソファに深く沈み込みながら、その言葉を反芻した。社会がどう見るか、家族がどう反応するか――そういった問題に翻弄されてきた二人。けれど、結局のところ、自分が自分をどう受け入れるかが最も重要だと知ったのは、お互いの存在があったからこそ。
「雨の日って、不思議といろんな思い出が頭をよぎるよ。鳥取のことは……まだあんまり話せないけど、いつかちゃんと話すよ。俺が……じゃなくて、私がどうして東京に逃げてきたのか、真琴には知っておいてほしいから」
「うん、待ってる。無理しなくていいよ。私はただ、あなたがここにいてくれるだけで十分だから」
流れる沈黙は、決して重苦しいものではない。むしろ、言葉を交わさずとも共有できる空気がある。それは出会った頃の張り詰めた緊張感とは違う、穏やかで温かな情感だ。
外では雨脚がいっそう強まってきたらしく、ざあっという音が遠くから重なり合って聞こえる。部屋の中は静かで、スタンドランプがほんのりと二人を照らし出す。詩流は真琴の手を取り、軽く握った。すると真琴も握り返してくれる。お互いに少し仕事で疲れているはずなのに、その手の温もりだけで何かが溶けていくようだった。
生きていれば、またいくつもの試練が訪れるだろう。病と向き合う日々はこれからが本番だし、真琴だって過去の記憶を完全に手放したわけではない。だが、今の二人にとって大切なのは“ここにいる”という事実だ。夜が深まるほどに、そのシンプルな事実が尊く思えてくる。
「ねえ、夜ご飯どうする? 外は雨がすごいから、デリバリーでも取ろうか」
真琴が少し照れたように言う。その声には、どこかくすぐったいような安堵が混ざり合っていた。詩流は小さく笑ってうなずく。
「そうだね。たまには出前もいいな。あれこれ考えるのも面倒だし、せっかくだからピザでも頼む?」
「いいね。じゃあ決まり」
そうやって一つの何気ない提案が受け入れられ、静かな夜の暮らしが続いていく。雨音をBGMに、パソコンの画面を閉じた二人は、いつの間にか肩を寄せ合ってソファに座っていた。
外は暗く、冷たい雨が降りしきる。けれど部屋の中は、不思議と仄かな温もりで満ちている。未来がどう転がっていくかはわからない。それでも、この瞬間だけは安心していてもいい。そう確かめ合うように、二人はソファで寄り添いながら、まだ見ぬ明日を思い描いていた。