見出し画像

冬暁ノスタルジア #01

第一章 邂逅(かいこう)

 東京の冬は、時折り優しく感じられるほどには冷え込みがゆるい。とはいえ、年の瀬が近づくにつれ気温はじわじわと下がり、夜の帳が降りるころには吐く息も白くなっていく。目黒川沿いのイチョウや桜の木は、ほとんどが葉を落としてしまった。秋の名残が漂う雑踏の中をそぞろ歩く人々も、心なしか足早に見える。

 そんな夜、更けゆく東京の街角から少し離れた雑居ビルの一階に、古い喫茶店がひっそりと明かりを灯している。店の名は〈カフェ・ルフラン〉。ガラス扉を開けると、小さなベルがちりん、と音を立てた。
 そこはカウンター席が五つほどと、奥に並ぶテーブル席がいくつかあるだけの、こぢんまりとした空間だ。照明は柔らかいアンティーク調のランプを用い、耳を澄ますと静かにジャズが流れている。雪洞のようにほんのりと薄暗い店内は、まるで別世界に入り込んだかのように時間がゆったりと感じられた。

 カウンター越しに白髪混じりのマスターが微笑んでいるが、その先のテーブル席にはふたりの姿があった。やや薄手のコートを着ているのは、長身の男――いや、現在は外見も声もかなり女性に近い――詩流(うたる)。その対面にいるのは、少し短めの髪を耳にかけ、淡いグレーのセーターに身を包んだ女性――真琴(まこと)
 一見すると女性同士のようにも見えるが、ふたりは「夫と妻」だ。もっとも、ふたりがそれぞれ抱えている性別への思いは、一般的に言う「男女」だけでは割り切れない。お互いに何かしらの違和感や心の陰を宿していながら、今はそれを肯定し合うように静かに寄り添っている。

 詩流は、コーヒーカップをゆっくりと傾けながら、店内を見回していた。やがて真琴が小さく笑みを浮かべ、声をかける。

「ねえ、どうしたの? 妙にキョロキョロしてるけど……」

「いや、なんでもない。ここの雰囲気、やっぱり落ち着くなと思ってさ。初めてふたりで来たときを思い出してた」

 真琴はスプーンでカップの縁を軽くたたきながら、ほほ笑む。その瞳はどこか懐かしさを帯びている。

「ほんと、あのときはまだ慣れなくて、なんだかぎこちなかったよね。うたるは今でこそだいぶ女性らしい外見だけど、出会った頃は……男性っぽさが残ってて、話し方も遠慮がちでさ」

「覚えてるよ。今から思えば、あの頃はまだ自分のことをどうアピールしていいかわからなかったんだ。中性的な自分をどう受け止めればいいのか、ずっと迷ってて。でも真琴が声をかけてくれたから……少しずつ変われたんだと思う」

 カウンターではマスターがコーヒーポットを洗っている。店内はほかに二組の客がいるが、話し声もささやき程度で、全体的に静かな夜の空気が漂っている。
 ふたりがこうして並んで座っていると、まるで長年連れ添ったカップルのように落ち着いた雰囲気だ。けれど、そこに至るまでには様々な葛藤があった。

 ふと、真琴の表情が柔らかく和らぐ。
「そういえば、私たちってどうやって出会ったか、ちゃんと話したことあったっけ? LINEのグループチャットで知り合って、そのあとの展開がけっこう早かったよね」

「うん。あのグループ……友達の友達が作ったやつで、メンバーがやたら多かったじゃない? ほとんど面識もない人ばかりの中で、真琴だけが僕の投稿にやたら反応してくれて……正直、なんでこんなに構ってくれるんだろうって不思議だったよ」

「私もさ、最初はただ“趣味が合いそう”って思っただけだったんだよ。ほら、コム・デ・ギャルソンとかファッション系の話題って、周りが乗ってきてくれないこと多いじゃん。だから嬉しかったんだ。うたるが“川久保玲の新作見た?”って何気なく返してくれたとき」

「そうだっけ……いやあ、懐かしいな」

 思い返せば、あの頃の詩流はまだ会社勤めで、男性のスーツを身につけていた。性自認は中性寄りだが、「いつか女性として暮らしたい」という思いを封じ込めていた時期。けれど、LINEのグループチャット上ではなんとか居場所を見つけようと、自分の“女性的な部分”をチラチラと覗かせる投稿をしていたのだ。

 真琴もまた、かつて「男になりたかった」と思ったことがあるほど、自身の性別に疑問を抱いていた。両親や周囲との確執があり、結局は女性の身体のまま生きる道を選んだが、それでも心の奥底には“男でも女でもない自分”がいるような気がしていて。その中途半端な感覚に時折不安を覚えていた。
 そんな背景を持つ二人が、“たまたま”同じチャットグループに参加していたことは、ある意味運命だったのかもしれない。


 あの日、新宿駅近くで初めて顔を合わせた時のことは、今でも鮮明に思い出せる。
 時計は19時少し前。真琴は黒い折り畳み傘を手に、駅ビルの前で落ち着かなげに立っていた。1月の冷たい雨がしとしとと降り、街のネオンが水溜りに揺れている。どこから流れてくるのか、年始のセールを告げるアナウンスが混ざり合い、人の波が右へ左へと絶え間なく動いていた。

「ごめん、待った? 詩流です」

 その声が聞こえたのは、ちょうど集合時間ぴったりくらいだった。振り返ると、背の高い男性……だけれど、長めの前髪や細身の服装から受ける印象は、どこか女性的な柔らかさを纏っている。真琴は「あ……」と小さく声を上げ、すぐに微笑んだ。

「ううん、私も今来たところ。はじめまして、真琴だよ。……なんだか、LINEでやりとりしてたイメージとちょっと違うかも」

「そっか、そりゃそうだよね。あっちではけっこう自撮りとか上げてたけど、実際に会うのは初めてだし……」

 詩流はどこか不安げに目を伏せる。新宿という大都会の雑踏、そして冷たい雨――それらがいっそう心細さを募らせる。
 真琴はそんな彼を見て、「大丈夫?」と気遣うように微笑んだ。その笑みは、まるで優しい姉か兄のようでもあり、初対面とは思えないほど自然な温かさがあった。

「ここじゃ落ち着かないし、どこかお店入ろう。コーヒーでも飲みながら話そうよ」

「うん、そうしよう」

 二人は軒先を探しながら細い路地へと足を向ける。看板の明かりが雨にじんで、街全体が少し霞んで見えた。通り過ぎる人々はみな急ぎ足で、傘がぶつかり合う音がカシャカシャと響く。


 入ったのは、古めかしい喫茶店だった。窓ガラスには小さな水滴がつき、外の喧騒が嘘のように静かな空気が漂っている。店内にはガラスのペンダントライトがいくつも並び、テーブル席は四つほど。カウンターの中では初老のマスターが新聞を読んでいた。
 二人は、少し奥まったテーブルに腰を下ろした。衣服や髪についた雨粒が、わずかながらコートに染み込み、ひんやりとした感触を残している。

「うわ……あったかい。ホットコーヒーにしよっかな」

 真琴がメニューを眺めながら呟くと、詩流も笑みを返す。

「僕は……やっぱりホットかな。雨の日は温かいものを飲まないと、気持ちも冷えちゃいそうで」

 マスターに「ホットコーヒーを二つ」と頼み、二人は改めて向かい合った。LINE上では何度も言葉を交わしていたのに、こうして顔を合わせると初々しい緊張が漂う。けれどその緊張は嫌なものではなく、むしろ“やっと会えた”という喜びに似た感覚だった。

「実は……私、うたるに会うのすごく楽しみにしてたんだ」

 真琴は目を伏せながら、ポツリと口にした。

「誤解されるかもしれないけどさ……うたるの投稿とかコメント見てると、自分と似てるところがあるような気がして。私も昔、“男になりたい”と思ってた時期があったから」

「そう、LINEで書いてくれてたね。僕は逆に女性になりたいと思ってたし……だけど心は厳密に言うと女性だけじゃなくて、中性的というか。でも外見は女性に近づけたい。何を言ってるのかわからないって言われることが多くて、ずっと悩んでた」

 詩流が言葉を重ねると、真琴はすぐにうなずいた。

「わかるよ。私も“男性になりたい”って言ってた頃、周りから変人扱いされた。家族とも散々ケンカして……でもいつの間にか気持ちが薄れたわけじゃないんだけど、なんとなく“女性として”社会に馴染むようになっちゃって。今はそれで落ち着いてるけど、完全に吹っ切れてるかって言われると、そうでもなくて……」

「そっか。お互い悩んでるんだね」

 やがてコーヒーが運ばれてきた。湯気の向こう側で、相手の表情がゆらめいて見える。雨の音は遠くで続いているが、この小さな空間にいる限りは穏やかな時間が流れていた。
 ふう、とふたりは息をつき、カップを手にする。苦味の中に、かすかに優しい酸味が広がる味わい。身体が温まっていくと同時に、心までほっと緩むようだった。

「こうやって直接話すと、LINEだけじゃわからなかったことがたくさんあるんだなって、改めて思うよ」

 詩流の言葉に、真琴は目を細めて微笑む。

「私も……正直、こんなに早く打ち解けられるとは思わなかった。なんか不思議だね。昔から知り合いだったような気さえする」

 二人の距離は、たった数十分ほどの対話ですんなりと縮まっていった。まるで、ずっと前から心を開き合っていたかのように。


 それから数か月。詩流と真琴はプライベートで頻繁に会うようになった。お互いが抱える性の問題や、仕事・家族との確執など、深い部分を徐々に打ち明け合うようになる。詩流がトランスジェンダー(心は中性的だが外見は女性志向)であることに対して、真琴は何の抵抗も示さなかった。むしろ“自分も似た悩みを経験してきた”という点で大きな理解を示し、それが詩流の支えとなっていった。
 一方の真琴も、かつて“男になりたい”と思っていた過去を、詩流に初めて赤裸々に明かした。表面的には女性として生活しているが、心の片隅ではいつも違和感を抱えている。そんな自分を許せない瞬間もあり、抑え込んできた傷を抱えていた。
 どちらかが弱さを吐き出せば、もう片方がそれを受け止める――そんな関係が自然と築かれたのは、おそらく“同じ痛み”を知っていたからなのだろう。やがて二人は恋人同士として過ごすようになり、さらには事実婚に近い形で同居も始めた。

 そして月日が流れ、今では正式に「夫婦」として生活しているのだから、人の縁とは不思議なものである。詩流は睾丸摘出術や顔の整形手術、喉の女性化などを行い、外見もすっかり女性らしくなったが、その心は“女性”に収まりきらない中性的なまま。それでも真琴は「詩流は詩流だよ」と、あっけらかんと受け止める。社会的な戸籍上の問題は一筋縄ではいかないが、とりあえず二人は現状で満足している。


 夜も更け、〈カフェ・ルフラン〉の時計が23時を指そうとしていた。客足も途絶えがちで、マスターが「そろそろラストオーダーですが……」と声をかけてくる。
 真琴は軽く首を振ってから、詩流に目を向けた。

「そろそろ帰ろうか。明日もそれぞれ仕事あるしね。……今日はいろいろと思い出話しちゃったね」

「うん、なんだかあの頃の自分たちを思い返して、少し恥ずかしくもなったけど、やっぱり出会えてよかったなって思ったよ」

 会計を済ませ、ふたりは店を出る。冷たい夜風が吹きつけ、吐く息が白く揺れる。街灯に照らされたアスファルトに、わずかに残った水たまりが光を映している。

 川沿いを少し歩いていくと、イルミネーションが施された目黒川が淡くきらめいていた。人通りは少なく、聞こえてくるのはわずかな車の走行音と、遠くのほうでささやくように流れる音楽だけだ。

「今日は寒いね」

「ほんと……手、冷たくない?」

 真琴がそっと手を差し出すと、詩流は迷わずそれを握った。指先に伝わる体温が、じんわりと心まで温めてくれる。ふたりはゆっくりと足並みを揃えて歩いていく。

「いろんなことがあったけど、今こうして一緒にいられるのが不思議なくらい幸せだな」

 詩流がつぶやく。真琴は黙ってうなずき、手の力を少しだけ強くする。その沈黙には、わかり合える者同士の静かな感情がこもっていた。

 けれど、二人にはまだ知らない未来があった。詩流が故郷・鳥取に抱えるトラウマ、そして体や心の病――それらが後に大きな波となって押し寄せることに、今は思い至らない。真琴もまた、かつての「男になりたかった」自分との折り合いを、完全につけられたわけではないのだ。
 そして、夜はあまりにも静かで、人生の試練を隠し持ったまま、深淵のように続いていく。

 けれど今このときだけは、ふたりがともにいて、互いを思いやる気持ちが確かに存在している。それがどれほど貴重なことなのか――冷たい風に震える指先を温めあいながら、二人はゆっくりと歩き続ける。

 そのぬくもりは、過去と未来が交差する一瞬を優しく照らし出す、ささやかな光だった。


いいなと思ったら応援しよう!