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冬暁ノスタルジア #05


第五章 白い検査室

 朝の光が白々と差し込む病院の待合室。金属製の椅子が並んでいるが、週末ということもあってか人は少ない。受付カウンターの奥では、ナースが書類を整理する音だけがささやかに響いていた。
 詩流(うたる)はマスクをつけ、ややうつむきがちに座っていた。もうすぐ自分の番号が呼ばれるはずだ。今朝からずっと、胸の奥で何かがつかえたような落ち着かない感覚がある。いつもなら真琴(まこと)と待合室で言葉を交わすところだが、今日はそれすらも控えたい気分だった。

 一方の真琴はというと、受付から渡された書類をバッグにしまい、詩流の横に腰を下ろしている。いつものように優しく声をかけようか迷いながら、彼の肩にそっと手を添えた。

「大丈夫? 顔色がよくないけど……」

「うん、ちょっと緊張してるだけ。いつもこうだけどね」

 詩流はマスク越しに微かに笑う。定期検査といえども、血液検査やCTは何度経験しても慣れない。結果次第では、血栓のリスクがさらに高まっていることもあり得る。そう思うだけで、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

 呼び出しのアナウンスが流れ、受付表示板に詩流の番号が点灯する。
「それでは診察室へお入りください」という看護師の声が響き、詩流はゆっくりと立ち上がった。

「……行ってくる。真琴はここにいて」

「わかった。落ち着いてね。大丈夫だから」

 真琴は小さく頷いて、詩流が診察室に消えていく背中を見送った。自分もついて行きたいところだが、診察室が混雑していることもあり、今日は待合室で待機するようにと言われている。彼女は胸の奥がきゅっと締めつけられるような不安を覚えながら、長い廊下を見つめ続けた。


 診察室に入ると、白衣の医師がデスク越しに笑みを浮かべ、詩流を迎えた。
「こんにちは。お久しぶりですね。今日は血液検査とCTを先に済ませてから、結果を見てお話ししましょうか」

「はい……よろしくお願いします」

 医師の言葉はいつも通り落ち着いたものだが、それがかえって詩流の心をざわつかせる。
 血液検査室へ移動し、採血台に腕を伸ばす。看護師の手際は慣れたものだが、針が刺さる瞬間の痛みはどうしても馴染めない。続いてCT室へと案内され、機械のベッドに横たわる。ひんやりとした金属の質感が背中から伝わり、身体が固くなる。

「リラックスしてくださいね。すぐ終わりますから」

 技師の声とともに、大きな円筒形の装置が動き始め、耳の奥で微かな機械音が反響する。息を止めたり吐いたりするタイミングを指示されるたび、詩流は「もう少し……もう少し」と自分に言い聞かせた。


 待合室に戻る頃には、すでに正午を回っていた。真琴が駆け寄り、心配そうに顔をのぞきこむ。
「おかえり。……大変だった?」

「採血とCT、いつも通り。でもなんか、すごく長く感じた。結果は午後にはわかるみたい……」

 詩流は疲れきった様子で椅子に腰掛ける。検査そのものよりも、結果を待つ時間がいつも苦痛だ。ときどき動悸がして、息苦しさすら覚える。

 真琴は持参してきた水筒から温かいお茶を注ぎ、詩流に渡す。
「これ、飲んで。少しでも落ち着けばいいけど」

 さりげない気遣いが詩流の胸を打つ。どんなに自分が不安定になっても、真琴はこうして隣で寄り添ってくれる。けれど、その優しさに甘えすぎてはいないだろうか――そんな思いが、ほんの一瞬脳裏をよぎった。


 しばらくして、再び診察室へ呼ばれた詩流は、真琴と一緒に医師の前に座っていた。
「では、検査結果を見ながらお話ししましょう」

 そう言って医師はパソコンのモニターをクリックし、画面に表示されたデータを見つめる。二人の胸は強く高鳴る。真琴は思わず息を詰めて目を伏せた。

「血液検査の数値から見ると、血栓のリスク自体は依然として高めです。ただ……前回と比較して急激に悪化しているというわけではありません。とはいえ、油断は禁物です。定期的な注射や投薬のバランスを、今後も慎重に検討する必要がありますね」

 詩流は、少しだけほっとしたような息をつく。急変していない、というだけでもありがたい。それでも、気がかりな要素は残る。
「それからCTですが、まだはっきり断定はできませんが、肺の一部に影があります。これは以前から少し疑わしい所見がありましたよね。今回も同様の場所に、わずかな変化が見られます。ただし、今すぐ重大な疾患を疑うレベルではありません」

「肺……影……」

 詩流は自分の肺に薄暗いイメージが重なり、頭が一瞬真っ白になるのを感じた。女として外見を保つためにホルモン注射を続けてきた結果、身体の各所に思わぬ負担が出ているのかもしれない――そう考えるだけでぞっとする。

「念のため、次回は専門医と連携して、もう少し詳しく調べていきましょう。大事に至らないことを祈りますが……」

 医師はそう言葉を濁しながらも、「血栓症の影響だけでなく、生活習慣やストレスも大きく関わる場合がある」と付け加えた。

 診察室を出ると、詩流と真琴は並んで長い廊下を歩いていた。二人とも無言。呼吸だけが小さく聞こえる。大きな窓からは白い光が差し込み、病院特有の無機質な清潔感があたりを支配している。

「……大丈夫だよ。深刻ではないって、先生言ってたし」

 真琴が先に口を開いた。けれど、その声はわずかに震えている。詩流は目を伏せ、ぎこちなく笑おうとする。

「そうだね……。でも、肺に影って聞くと、さすがにビビるな。あんまり考えすぎても仕方ないんだけど……」

「うん……」

 真琴の言葉も続かない。二人はただ黙りこんだまま、受付で次回の予約を済ませ、しんとした空気の中でエレベーターに乗り込んだ。何かを言わなければいけない――そう思っても、うまく言葉が見つからない。


 病院を出ると、外は曇天から少しだけ日差しが漏れていた。ビル街のアスファルトは、昨日の雨がすっかり乾いて白っぽく光っている。詩流と真琴は無言のままタクシーに乗り込み、目黒区のマンションへ向かった。

 車内では運転手の軽快なラジオトークが聞こえるが、それさえ遠く感じる。詩流は窓の外に目をやりながら、さっき医師が言った「肺の影」という言葉が脳裏にこびりついて離れない。真琴もまた、隣でハンカチを握りしめるようにしてうつむいていた。頭の中では、最悪のシナリオばかりがちらついてしまう。

(今はまだ「大変な病気」というわけじゃない。でも、もし……もしもこの先、もっと悪化していったら、どうなるんだろう)

 タクシーがマンション前に到着すると、二人はふっと軽く息をついて車を降りた。エントランスを通り、エレベーターで部屋に向かう足取りはどこか重い。ドアを開けた瞬間、詩流が小さくつぶやく。

「……ごめん、ちょっと一人になりたい」

「……わかった。私はリビングで待ってるから、落ち着いたら呼んで」

 それだけ言い交わすと、詩流は寝室へ閉じこもるように扉を閉め、真琴は鞄をソファに下ろして重いため息をついた。普段なら励ましの言葉をかけるところだが、自分自身も不安に押しつぶされそうで、言葉が見当たらない。

 カーテンを開けると、雲の切れ間から陽光が部屋の一角を照らした。薄い光の筋が床に映り、か細い明るさを主張する。
 どこかでダーツバーに行ってリフレッシュする元気が出る日はまた来るのだろうか、と真琴は思う。遠い未来を想像するには、あまりにも心が沈んでいた。

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