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冬暁ノスタルジア #03
第三章 夜の矢(や)に託すもの
雨の降りつづいた翌朝は、不思議と空気が澄んでいる。詩流(うたる)は窓を開けて深呼吸をし、まだ少し湿り気の残った空を見上げた。雲の合間から差す陽光が、ビル群の隙間をぬってまばらに照らしている。
このところ天候が不安定だったせいか、気分の揺らぎがしばしば顔を出す。女性ホルモン注射の副作用や、もともと抱えているうつ病の気配も無視できない。けれど、詩流はそれを隠すように、いつものようにデザインソフトを立ち上げ、今日の作業をぼんやりとイメージしていた。
一方、リビングの向こうからは真琴(まこと)の足音が聞こえる。彼女は少しぽっちゃりとした体型に、タレ目が特徴的だ。どこか柔らかな雰囲気を持ちながら、涙もろい性格で、ちょっとしたことで目を潤ませることがある。それでも詩流が弱っているときには、驚くほどの献身を見せてくれる。
「おはよう。朝ごはん、簡単に用意しちゃったけど……パンでいい?」
真琴の声は弾んでいて、すでに部屋にコーヒーの香りが漂っていた。トースターで軽く焼いた食パンの甘い香ばしさが、朝の空気に混じって優しく鼻をくすぐる。
「あ、ありがとう。助かるよ。……寝起きはどう? あんまり寝られなかったみたいだけど」
「ううん、なんとか大丈夫。ちょっと夢見が悪かっただけ。たこ焼き食べる夢見てたのに、最後のひとつがどうしても取れなくて……目が覚めちゃった」
そう言って笑う真琴の目尻には、まだ寝不足の名残が見える。詩流は彼女の明るい言葉に軽く返す。
「そっか、夢の中ですらたこ焼きか……。まあ、なんにせよ食べられる夢でよかったんじゃない?」
家の中には柔らかな日差しが差し込み、朝のひとときはいつものように穏やかだ。詩流と真琴は小さなテーブルを挟んで向かい合い、コーヒーをすすりながらパンとサラダをつつく。
午前中の仕事を終え、午後になると真琴のコールセンター勤務もひとまず区切りがついた。詩流のデザイン作業もひと段落し、部屋にはゆるやかな沈黙が降りている。
外を見ると、雲間から陽射しがこぼれ始め、珍しく明るい空模様になってきた。二人は顔を見合わせ、どちらからともなく「外に出ようか」という声が上がる。
「少し歩いてから、ダーツバーに行かない?」
提案したのは真琴だった。詩流は迷うように目を伏せるが、「行こうか」とうなずく。ふたりは家にこもりがちになると、どうしても暗い考えに囚われてしまう。ダーツは二人にとって、大切な気分転換の手段だ。
「今日は……カウントアップにしようかな。ゼロワンでもいいけど、ちょっと集中できるか不安なんだよね」
「大丈夫。クリケットよりは簡単だから、楽しもうよ。まあ、私はいつも狙ったところに刺さらなくて泣いちゃうんだけど」
真琴は少し笑って、ポーチにマイダーツを仕舞い込む。普通の人よりタレ目で涙もろいが、その点を自分でも気に入っているのか、「これが私の個性だから」と気にしない様子がどこか微笑ましい。
夕暮れ時、二人は目黒通り沿いの喧騒から少し外れた場所にあるダーツバーに足を運んだ。外観は黒を基調としたシックな雰囲気。扉を開けると小さな金属音が鳴り、照明を落とした店内にはダーツ台が二台、カウンターが数席だけというこぢんまりとした空間が広がっていた。
先客は若いカップルが一組だけで、静かなBGMが流れている。真琴と詩流は軽く会釈を交わし、カウンターでソフトドリンクを注文してからダーツボードへ向かった。
「うたる、先に投げてみて。今日は調子どう?」
「わからない……やってみるね」
詩流はダーツを軽く握り、狙いを定めてふっと息を吐く。肩の力を抜いて投げ込むと、ダーツはトン、とボードに吸い込まれるように刺さった。
画面に表示される得点はまずまず。ゼロワンのルールで、ひとまず501からカウントダウンする。詩流は二投、三投と続けるが、集中力がいつもより切れやすいのか、思わぬミスが出ることもあった。
「……やっぱり今日は、あんまり集中できてないかな」
「そんなに気にしなくていいよ。ここに来たのはストレス発散が目的なんだから。競技じゃないんだし、楽しもう」
真琴が柔らかくフォローする。彼女だってうまいわけではないが、自分のペースで投げること自体を楽しんでいる。狙ったところに届かないときは大げさなくらい悔しがって目に涙を浮かべるが、それすらもどこか愛嬌を感じさせる。
何ラウンドか続けるうちに、少しずつ詩流も肩の力が抜け、楽しんでいる自分に気づいた。時折見せる真琴の失敗に笑い合い、逆に好投をすればハイタッチ。そんなふうに過ごすうちに、心の重荷もほんの少しだけ軽くなるようだった。
ふたりは小一時間ほどダーツを楽しんだ後、店を出る頃にはすっかり日も落ち、街は夜の帳に包まれていた。川沿いを歩いてマンションへ戻る道すがら、まだ少しダーツの余韻が残っているのか、真琴は顔を紅潮させながら言う。
「今日も全部負けちゃった。私のほうが点数低かったもんね……。下手ですみません、先生」
「何言ってるの。僕だって、ずいぶんミスしてたよ。でも久しぶりに気分が晴れた。ありがとう、誘ってくれて」
冷たい夜風が吹き抜ける。時刻はまだ早いが、冬に差しかかっている東京の夜は冷え始めるのが早い。真琴はコートのフードを頭にかぶり、あまり得意ではない人混みを避けるように少し遠回りの道を選んだ。
歩きながら、ふと詩流の歩調が乱れる。足元がよろめき、「あ……」と声を上げる。すかさず真琴が腕を支えると、詩流は申し訳なさそうに俯いた。
「ごめん、ちょっとめまいが……。最近、とくに気をつけてるんだけどね」
「大丈夫? 無理しないで。そろそろ病院で検査とか、また行くんでしょ?」
うつ病の症状や血栓のリスクは、詩流を精神的にも肉体的にも追い詰めている。二週間に一度の女性ホルモン注射は手放せないが、副作用は日ごとに重くのしかかるようだ。真琴はその苦しみをよく知っていた。いつになったら安定するのか、医師にもはっきりしたことは言えないらしい。
「うん、近いうちに行くつもり。……少し歩けば落ち着くから」
詩流はそう呟くと、もう一度大きく息を吸い込んで、体勢を立て直す。真琴は何も言わず寄り添いながら、彼のペースに合わせて歩幅を合わせてくれた。その横顔は少し不安げだが、決して弱音を吐かないところが、真琴の強さなのかもしれない。
部屋に戻ってから、真琴は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、詩流に手渡した。詩流は一気に口を潤し、ソファに腰を下ろす。
「ありがとう。……今日のダーツ、楽しかったな。ちょっと気分が軽くなったよ」
「よかった。私も、ああやって一緒に遊んでるときが一番素の自分でいられる気がするんだ……」
真琴はタレ目がさらに垂れ下がるように微笑んだ。それはどこか自信なさげな笑みでもあり、同時に温かさを宿した笑みでもある。
「私は昔、男になりたかったけど、今こうして女として――しかもぽっちゃり体型で、“普通”とされる美しさとはちょっと違う姿で生きてる。でもそんな私を、うたるはまったく否定しないでいてくれる。だから、私もあなたを支えていたいの」
その言葉に詩流はまぶたを伏せ、しみじみと感謝が湧き上がるのを感じた。外見を女性に近づけても、心の中は必ずしも「女性」と言い切れない自分。それを真琴は一度も否定せず、寄り添い続けてくれている。
「ありがとう。……僕も、真琴が好きだよ。そのままのあなたが」
静かな部屋の中、二人の言葉はほんのささやきのように空気に溶けていく。外の街灯がレースカーテン越しにぼんやりと差し込み、都会の夜がゆっくりと深みを増していくのがわかる。
ダーツバーでの対戦結果は、二人とも大した点数ではなかった。それでも、あの時間にはかけがえのない熱があった。落ち込みやすい二人が、それでも何とか一歩前に進もうとするとき、こうした小さな遊びや笑いが確かに背中を押してくれるのだ。
明日になればまた仕事に追われ、うつ病の症状が顔を出すかもしれない。あるいは、血栓症の不安がさらに現実味を帯びてくるかもしれない。しかし今夜だけは、二人の心は穏やかな光を携えていた。ソファに並んで座り、互いの肩が触れる程度の距離感。それで十分なのだと、二人は同時に思っていた。
――こうして、夜は静かに更けていく。詩流と真琴の暮らしにはまだ見えない問題が山積みだ。それでも、彼らの胸の内には、ダーツの矢がどこかに当たる音のように微かな手応えが残っている。少しだけ前を向いて、明日を信じてみようという、小さな勇気が。