ただの自分の昔話:今の私を創ってきた、昔の自分と周囲の環境

※この記事は研究活動の合間(休憩中)に書き連ねています。時々、文脈がぶっとぶことがあるかもしれません。

最近、友人の記事を読み、少し…というか20年以上も前のことを思い出していました。今、ある意味では人生のターニングポイント真っ只中かもしれないし、そうじゃないかもしれないけれど、いろんなきっかけや選択があって、今の自分がいるんだよなぁということを感じたので、少し今の私につながる、主に仕事がらみのことだけれど、自己開示してみようかと思いました。


「社会福祉」との出会い…小学生

私が初めて「社会福祉」に興味を抱いたのは、11か12歳のころだったと思います。学年でいえば、小学6年生。当時、「職業インタビュー」だったか、正確なことは全く覚えていないのですが、それでも社会福祉協議会に行って、「社会福祉士」の話を聞く、ということを学校の授業の一環で行ったことを覚えています(全員ではなく、それぞれがいろんなところに行っていたと思います)。当時は話を聞きながら「で、介護は今やるの!?」なんて思いながらずっと話を聞いて、話が終わったらまっすぐ学校に帰るから、終わった後には「あれ・・・おじいちゃん、おばあちゃんの介護は?」って思った記憶まであります。
今だからこそはっきりとわかりますが、「社会福祉士」と介護職は違うということを当時の私はよくわかっていませんでしたね。
けれど、この職業インタビュー?がきっかけで私は「社会福祉士」を目指すようになりました。
肝心な内容は何一つ覚えていないんですけどねぇ。。(笑)

「高齢者施設」へのボランティア…中学生

中学生になりました。テストの成績が順位化され、自分がさして頭のいい人間ではないことを知るには十分すぎるインパクトを最初のテストでもらいつつ、勉強すれば「そこそこ」できるやつなんじゃないかと思える順位も取り、恋愛に現を抜かして授業も聞かずに勉強もしなければ一気に合計得点100点(500点満点)を落とせるなんてことも知った中学生。この時はさすがに担任に呼び出しを受けましたね。中学2年生の夏(笑)。

さて、そんな中学時代、福祉とのかかわりは「高齢者施設」へのボランティア体験。施設種別は何だったか覚えていません。ただ、高齢者施設に行き、高齢者と雑談したり、職員が企画したレクリエーションに参加したりしていました。
その時の率直な感想は
「なんか違うな。介護は違う。自分にはたぶんできないし、向いてない。」
少なくとも「介護」を生業にすることはやめようと思ったことを覚えています。

「特殊学級」の同級生たち…中学生

私は部活に所属していましたが、その顧問が特殊学級(現:特別支援学級)の担任をやっていました。大きな体格の熊みたいな先生でした。
幸か不幸か、私は主将になりました。毎日先生に会いに行き、日程や練習場所について確認等を行うことになりました。すると、まぁ毎日のように特殊学級に行くわけです。一人は軽度の知的発達症のある女の子。もう二人は重度の知的発達症+自閉症だったのだろうと思う男の子たち。まぁ、当時の私には「知的障害者」ということぐらいにしか分からなかったわけですが。女の子はよく「先生、いないよ。」と教えてくれたりして「ありがとう」ってコミュニケーションをとっていたのですが、残りの二人は何をするのかわからず、正直怖かった記憶があります。
だけど、当時の私は「差別なんてしてはいけない」と思っていたので、「しんしょう」って差別発言をしている同級生に「そういうこと言うなよ」って言っていました。まぁ、だいたい「うっせー」ぐらいで返ってくるんですけど。
今考えると、通常級にも「軽度知的発達症」「注意欠如多動症」「反抗挑発症」の子どもたち(というか同級生)は幾人かいたなぁと思います。
いずれにせよ、この特殊学級の同級生たちを見て、私は「あぁ、障害者と自分はかかわっていけないだろうなぁ」なんて、「差別なんかしてはいけない」と思いながら感じていました。

「保育園」の子どもたち…高校生

高校生になると、友人はいましたが、別に常に誰かと一緒にいる必要ってそんなにないんだなぁと気づくようになりました。というか、一人の時間が心地よくなるという。
そして、なぜか1年生の初めにどもるキャラを定着させてしまったので、そのキャラを学校では3年間貫き通すというよくわからないことをしていました。余談ですが、同じ大学に進学した同級生(直接的面識なし)から全くどもっていないことを他の同級生にリーク?され、同窓会で「大学デビューしたの?」なんて聞かれたときには、もはや自分がキャラを作っていたことも忘れていました。
まぁ、そんな高校生時代、保育園にボランティア実習に行きました。
はい、かわいい。
こども、はい、かわいい。
たまに生意気なガキンチョが混じっていても、基本的にかわいい。
「なるほど、自分には児童福祉の道があっているんだ。」と結論付けました。
まぁ、そりゃあただ遊ぶだけの高校生のボランティアなんて、「かわいい」と思って、一緒に楽しんでいればいいですよね。
だけど、意外にかかわってみて、肌に合うかどうかはきっとあるんだろうなぁって思います。余談ですが、私の妻は高齢者とのかかわりのほうが子どもとのかかわりよりも好きだと言っていました(というか、自分たちの子ども以外好きじゃない、かわいくない…っていう(笑))。

「福祉系大学進学」のために…高校生

さて、社会福祉士をとるためには、養成校に入らなければなりません(高校生の時の私にとっては)。
ですが、高校は県内でもど真ん中な進学校ともいえるような、いえないような学校。そして、そこでも成績は中の下。なぜか数学だけは文系だったのに上の上。我が家の母は高校の志望ランクを下げたのだから、国公立の推薦入試で通れるような位置にいると思っていたようですね、1年生の最初のテストまで。まぁ、そもそも母の志望ランクで、私の志望ランクではなかったのですけど。
いずれにせよ、誰が見ても国公立大学は難しいだろうという感じ。3者面談でも、そういうことをしばしばいわれました。全統模試でもALL E判定(再考)でした。

これは戦略が必要でした。
私は福井県立大学に的を絞りました。当時の福井県立大学(福祉学科)は英語と理科・社会から1科目だけの評価だったのです(センター試験は)。2次試験で国語・数学(だったと思う)。
英語は勉強しないだけで苦手意識はなかったので勉強すれば7~8割は取れるだろうと思っていましたし、数学は言わずもがな。問題は国語と理科・社会。だけど、センター試験までは理科・社会1教科だけを集中的に勉強し、英語をある程度やれば通る、センターが終わったら国語一本(数学はできる!)で勉強すれば可能ではないか。

センター試験の結果

ということで実践しました。学校の夏期講習などは全て行ったふりして図書館…とサイクリングをしていました。

理科・社会は倫理を選択。想定外だったのが、自分があまりに倫理を理解できなかったこと。センター直前の模試では偏差値29を叩き出しました。1か月、倫理だけを集中して勉強しました。

結果、国語6割強、数学3割強、英語7割強、生物6割強、倫理8割強、日本史5割強(ぐらいだったと思います)。倫理については、学校の先生から「最下位からの逆転だね」なんて笑いながら言われました。
数学はできる!なんて自信満々で無勉強でセンターに臨み、自己採点の結果を見た時はショックでしたね。
そんなこんなで(数学以外は)センター試験の成績が思った以上によく、所属していた学校(文系)でも上位のほうにいました。それまで私より上位の成績だった人たちが「まさか、ふゆまきみこより下だなんて…」って言ってきたものですから、にこやかに「いいでしょ(^^)」って返してあげたのは、ちょっと意地悪だったかな?なんて思い返します。

2次試験と進学

さて、こうなるとかえって選択の幅が広がりました。ここまでは本当に福井県立大学一本狙いだったのでそれ以外の考えは全くありませんでした。ただ、私は最も国語が苦手だったので、逆に2次試験に国語がないところを選んだほうが無難ではないか…と思い始めました。そんなところに、ある友人が私に教えてくれたのが私が4年間お世話になる国立大学でした。前期試験は総合問題と小論文…だったかな?いずれにしても、これなら見込みが十分。何より国語もやらなくていいということもよかった。それ以外の理由もありましたが、国立大学を受けることにしました。
まぁ、逆に何を勉強すればいいのか分からない…というような事態になっていたような記憶も…無きにしも非ず。
こうして、私が「社会福祉士」になるためのスタートラインが整いました。
余談ですが、我が家では「お金がないから、私立は無理だよ」と言われ続け、私立は受けず、浪人という選択肢もないという状況で、国公立大学一本での受験でした。今にして思うと滑り止めをしないというのも、なかなか思い切った選択だったなぁと思います。

「障害者とかかわったことがない人はかかわってみなさい。必ず差別するから。」

入学後、1年生前期に履修したソーシャルワーク論Ⅰ。何回目の講義であったか忘れたけど、その先生が言った言葉。特殊学級の同級生たちにあいさつするぐらいはあったものの、確かにちゃんと彼らとかかわったことがないと思った私は、「いや、差別なんてしてないし。」なんて思いながら、じゃあどこかでかかわろうと思いました。
同じく福祉を学ぶ友人から自閉症児とかかわるサークルに体験入部してみないかと誘われ、行ってみることにしました。

全くかかわれませんでした。というよりも明らかに自分の中にある差別する心に気づき、かかわれなくなりました。

この時、私は「あぁ、障害者は絶対に無理だ。この人たちに無理にかかわるとかえってこの人たちにも悪いから、絶対障害者福祉にかかわることはやめよう」と強く決心しました。

その日のサークル終了時、当時のサークル代表がサークルのみんながいる前で、それはそれは悪意のない満面の笑みで「サークル、入ってくれるよね?」なんて聞かれた日には「…はい。」って言うしか私にはありませんでした。

持続した知的障害児とのかかわり

それから半年、とりあえずサークルに行ったり行かなかったりを繰り返していくうちに、別のボランティアサークルにも声を掛けられ、そのボランティアサークルをきっかけに知的障害児通園施設に行きました。

あれ?かわいい。
あれ?普通の子とおんなじじゃないか…?

「発達」の勉強をしていない当時の私からすると、2~3歳の子どもの発達が少し遅くても、しゃべらない以外の認知機能の違い等はあまりわかりませんでした。これがきっかけで「あ、知的障害者も自分たちとおんなじ人なんだ」と思えるようになりました。

すると、最初のサークルのほうでも積極的にかかわれるようになりました。
だんだん、彼らの世界に引き込まれていきました。

図書との出会い

ある日突然先輩から本を渡されました。

内山登紀夫:本当のTEACCH 自分が自分であるために
https://hon.gakken.jp/book/1340297300

「落ちてたから、あげる」
えー突っ込みどころが満載でしたが、もらってしまいました。
そして、自閉症の「じ」の字も知らないような若造が読んで思ったことが、この理念、ソーシャルワークと何が違うんだ?ということ。もちろん「認知理論と行動理論を重視する」等は当時は全くもって理解不能でしたが。
けれど、そんな理念が「かっこいい」と心に刺さり、以降私はTEACCHを勉強するようになりました。

自閉症支援者になるために

大学3年生になる頃には、社会福祉士になる!と言い切るほど、社会福祉士には魅力を感じなくなっていました。とは言え、資格は取っておくに越したことはないと思うので、指定科目の履修自体は行い続けました。当時は自閉症支援を学びたいという一心で、毎日のようにボランティアを通して自閉症児とひたすら関わり続けました。ボランティアサークル、教育支援ボランティア(小中学校に赴き、教育活動の補助を行う)等、それはもう毎日自閉症児とかかわりました。この時にできた様々な繋がりは今でも財産になっていますね。
転機が訪れたのは大学3年の秋からだったでしょうか。ある大学(院)の先生が、私がいた地方に講演会をしにきたのです。その地域では様々な研修に出ていたので、主催者らと顔は知っている、というような間柄になっており、(まぁ学生の受講者はだいたい私だけだったので覚えていただけたと思うのですが)ぜひその先生とお話しさせて欲しいと訴えると、先生に確認してくださり、講演会中の合間の控室に通して頂けました。
そこで先生のいる大学院の話を聞き、この先生のもとで学びたい!!と強く思い、大学院進学を決めました。

卒業論文

就職活動をする必要がなくなったので、大学ではあとはボランティアとアルバイト(メンタルクリニックにおける発達障害児や被虐待児との遊びを通したセラピーや特別支援学校寄宿舎の臨時指導員)と卒論を書くことだけが目的となりました。実際にはもっと講義を受けて、教員免許の取得や精神保健福祉士の取得等、取れる免許・資格はとっておけばよかったと後悔しておりますが。
卒業論文のテーマは何にしようか。この頃、自閉症に関する論文をciniiで検索すると事例研究が多かったような記憶があります。その中でも自閉症児とボウリング等の余暇活動を実践していた論文が私の目に留まりました。
「これだ!」
と思いました。日々のボランティア活動は余暇活動が主でした。今でいえば、行動援護事業に近いことばかりしていました。
この頃から、研究=事例研究というような思考となり、量的研究、質的研究(事例研究も質的研究ですが、ここではそれ以外の質的研究を指します)なんて面白くもない、というThe現場主義的思考となっていました。
半年以上かけ、2名の協力児童と一緒にボウリングを行い、その結果を考察しました。当時、「考察とは何ぞや」という感じで、ほぼ感想めいた内容を書いた記憶があります。
そして、指導の結果も…指導は成功したといい難いもの。
なぜか。
それは「アセスメント」をしないで、TEACCHが開発した「構造化」を導入したことですね(これが考察に書けていればまだ考察がよかったかも!?)。
利用者のアセスメントをしないで支援を行う等、言語道断ですね。ですが、そういった実践に対するスーパービジョンをしてくれる、できる(大学)教員もいなかったのです(論文指導という意味ではもちろん指導いただけましたが)。

これが、私が「大学教員」になりたいと思ったきっかけです。
学生が学びたいこと、やりたいことを教えたい。自分の専門領域でなくても、少なくとも一緒に考えたい。教育者として大学教員になりたい、と思った次第です。

余談ですが、この時の指導教官とは今でも飲みに行くような間柄(といってもコロナ禍もあり、なかなか行けていませんが)で、非常勤講師の枠も作ってくれるなど、今でも私のことをお世話してくれる素敵な先生です。


大学院修士課程進学決定

9月頃、院試を受けました。どんな研究計画書を提出したかも覚えていません。研究室訪問もしてません(大学3年次の講演会でのあいさつで十分だと考えていました。今にして思うとなかなかあり得ないことですが。。)10名募集のところに私を含めて2名しかいなかったので、あ、これは楽勝だ、なんて思った覚えがあります。
英語の試験なんてほぼわかりませんでした。面接試験もうまくできていたように思えませんが。
そんな状態でなぜか合格をいただけました。
1,500kmも移動することになりました。

劣等感に苛まれる

そんなこんなで卒論を仕上げ、院試も終わり、晴れて大学院生になりました。
院試(前期)には10名募集のところに2名しかいなかったのに、後期試験にたくさんいたのか、同じM1にはしっかり11名いました(私含む)。

このうち、私ともう一人が自閉症支援を学びに来た人。

“自閉症支援を学びに来た”という表現に違和感を感じられる研究者の方も多いかと思いますが、私が出た修士課程では臨床家を育てることが主なコースがあり、そのコースを選んだのが2人でした。ある意味、専門職大学院的なコースに近いものがあったかもしれません。
さて、この臨床家を育てるコース、M2は5名、M1は私を入れて2名でした。みんな同じ指導教官です。私のように学部卒から入った人は3名でした。そう、このコース、実は現場経験を有する人を対象にしたコースでした。なので、他の4名は働きながら大学院に通っていました。

私はというと、大学時代に毎日のように自閉症児とかかわっていたため、自閉症支援について「根拠のない」自信を身に着けていました。
このコースは臨床自体も必修科目であり、発達検査もコース全員で持ち回りでとり、すべての検査を全員でカンファレンスして報告書を作成する科目がありました。

はい、私は福祉学科を卒業していて、発達検査なんてろくにやったことがありません。人の発達についてもおよそ社会福祉士が学ぶ並みの発達しか勉強していません。
すでに現場経験を有している先輩方や、1年間自閉症支援の基本を叩きこまれた学部卒のM2の先輩方に何も太刀打ちできることなんて、何一つありませんでした。

根拠のない自信がなくなるのに、3か月も必要ありませんでした。

指導教官の退任と後任の指導教官

ある日、指導教官のゼミ生(学部生)やゼミの卒業生らと一緒に飲み会をする機会がありました。院生も参加で。
その時「はい、私、今年いっぱいで、教員やめまーす(笑)」

「え・・・」(´・ω・)

呆然としましたね。だってその先生から学びを得たくてその大学院に行ったわけですからね。
後日、後任の指導教官について説明がありました。
私が学部でいた地域で活躍していた臨床家で、全国区でも有名な人でした。実は学部時代にその人が非常勤講師としてきており、授業を受けたこともありましたが、高圧的な印象があり、あまり得意ではないような気がしていました。
その予感は見事に的中してしまいました。

「大学院生なんてこんなもんか」

M2になり、4月の初頭。新しい指導教官を迎え、臨床家育成コース(勝手に命名)の指導教官補佐の先生らとM2と新しいM1(2名)で飲み会を開きました。そこで、指導教官とディスカッションをしましたが、しょっぱなからこんなことを言われました。
「大学院生なんてこんなもんか。〇〇(指導教官の名前)、こんなことも知らないのか、って言わせてみろ!」
この頃の私はもはや悔しいとも思えないぐらい自尊心なんてありませんでした。

「お前に福祉は向いていない」

自尊心がない状態というのは、本当に何をやってもうまくいかないものですね。講義の発達検査も、演習も、修士論文も全くうまくいかず。
とうとう新しい指導教官には6月頃に「お前は福祉に向いていない。別の仕事をしたほうがいい」と言われました。目の前がグラングランしたことを覚えています。
あまりにそういう話ばかりされるので、
「先生の今の利用者は学生の自分たちじゃないんですか。先生は施設にいる利用者のことを見ているんですか?」
と尋ねると
「そんなの施設にいる利用者に決まっているだろっ!」と一蹴されました。
大学教員としてはそのスタンスはどうなのでしょうね。大学教員から最もサービスを受けるべきは授業料を支払っている学生なのではないかと、私は当時も今も思っているのですが。
この日を境に、指導教官とは何もうまくやり取りができなくなりましたね。

捨てる神がいれば、拾う神もいる

こんな劣等生であっても、拾う神もいました。
それが指導教官補佐の先生でした。
いや、拾うといっても、貧乏くじ引かされたぐらいの感覚だったと思いますが。
私の修士論文の指導はほぼ、この補佐の先生がしてくれました。補佐の先生に全ての指導をお願いし、月に1回ぐらい指導教官に持っていくという感じ。補佐の先生は週3ぐらいで夜9時から11時頃までカフェ等で指導してくれました。発達検査にしても、実習(臨床)にしても全てビデオでとっており、それを見ながらスーパーバイズしてくれました。
10月ぐらいになってやっと指導教官から
「ちょっと良くなってきたじゃないか。」と笑いながら言われました。
「全部あなたじゃなくて指導教官補佐のおかげだよ」って声高らかに言ってやりたかったですが、まぁ、そんなことはできませんでしたね。
全国から来る著名な非常勤講師の先生方もみんな優しく指導をしてくれました。
これは今でも思いますが、修士課程を修了できたのは、絶対にこの指導教官補佐の先生(と当時からお付き合いしていた妻の励み)のおかげ。
そして、ますます大学教員になることに強い思いを抱きました。
自分は「絶対に学生を見捨てない教員になる」と。

修士課程修了と就職1年目

こうした指導教官補佐の先生の指導のもと、晴れて修了しました。
そして、就職のため、学部を卒業した地域に戻りました。またまた1,500kmの移動です。
ある福祉法人に就職しました。
大学院M2時代の指導教官がいた福祉法人です。
1年目は、失っていた自尊心を回復させるためのある種リハビリみたいな感じでした。
はっきり言って、学部時代の知識だけでも、他の支援員よりも十分に通用することがわかりました。ましてや大学院で得た知識は管理職をも超え、法人の多くの管理職よりも知識があることがわかりました。
「なんだ、(指導教官がいた福祉法人は)こんなものか」と思うのに、時間はかかりませんでした。そう思うと逆に院生時代にズタボロにされたことが腹立たしく思うようになりましたね。
今にして思えば、大学院時代も、この1年目の時も、人と比べることでしか自分の価値を認識できない残念な人間だったんだなぁと感じますね。

劣等感がなくなり、自尊心を持てるようになる

そんなこんなで、自尊心をもつようになると、人は強くなるものです。
院生の時に講義で聞いてきたこと、やってきたことがパズルのピース片を拾い集める作業だとしたら、施設での実践はそのピース片を組み立てる作業だったように思います。
日々、実践していくと「あぁ、大学院の講義はこういうことだったのか」と思うことがどんどん増えていきました。
指導教官補佐が私にしてくれたようなことを、どんどん他の職員に行うようになりました。
一方で、管理職の経験値ともいえる「生活の視点」とでもいえばいいでしょうか。単純な知識ではないものが非常に重要に思えてきました。もちろん、管理職というか、人によってその視点は違うので、一概に単純な経験値がよいとは言いませんが。
自尊心、自己肯定感と言葉を置き換えてもいいですが、これは本当に重要だということを思い知らされました。まさにエンパワメントです。利用者が自尊心をもつことで、主体的に自分の生活を変えていけるように援助をすること。身を以て知ったことです。自信がない時って、何をやっても、何をやっていてもうまくいく気がしないんですよね。

講演会の講師

ひょんなことから、講演会を引き受けることになりました。普段実践していることを報告してほしい、と。発達障害者支援センターからの依頼です。正確には発達障害者支援センターを通した市町村からの依頼です。初めての実践報告にドキドキしつつ。
結果的には参加者にも主催者にもお褒めいただき、有頂天になりました。

論文執筆と社会福祉士実習演習担当教員講習会

修士課程を修了し、働き始めて3年。そろそろ大学教員に向けて何かできないか。そうだ、論文を書こう!と思い始めた時期。1年かけて査読審査を経てアクセプトされました。
初めて投稿した論文がアクセプトされたことに味を占め、また書こうと思うようになりました。
また、大学教員になるためにはどんな領域で、自分がどんな専門性を持っているのかを伝えられないといけないのではないか、と思い、社会福祉士をとることにしました。社会福祉士をとり、その領域で働くことで、自閉症支援という小さな枠組みではなく、福祉の教員として、応募領域を広められるのではないかという思いですね。
1年の勉強を経て、しっかり合格しました。
そして、社会福祉士実習演習担当教員講習会を受けました。きっとこれがないと、太刀打ちできないだろうと。ここで得た仲間は領域の違いがあっても同じ志をもった人たちでいい刺激を受けました。

リサーチクエスチョンの問題

さて、以前どこかの記事でリサーチクエスチョンを持っていなかったことを記述しました。論文をまた書こうと思っても、リサーチクエスチョンもなかったため、「論文にできそうな実践はないか。」という考え方をするようになりました。そして、この時点でもまだ、量的研究や他の質的研究を勉強しようとせず。。そんなこんなで考えているとまた3年の月日が経ち…

学会発表と大学教員の講師補佐:同年代のライバルたち

ある大学の著名な先生が、私のいる法人の研修会に来てくれました。私のいる施設の利用者を見て、「〇〇な実践をしたらいいんじゃない?」と言ってくれました。施設長も賛同し、プロジェクトを立ち上げ、実践をしました。その実践を学会発表しました。すると、ある発達検査(正確には発達検査ではないけれど、便宜上)の講師補佐を任されました。すると、その大学の先生の愛弟子たちと出会いました。同年代の講師補佐らは自分よりも研究をしていて、実践も著名な先生にSVしてもらっていて。
以前の劣等感とは別に、「悔しさ」と「嫉妬」の感情がわきましたね。
ライバル…というよりも一方的な妬みの対象というべきでしょうかね。
余談ですが、彼らは一足先に最近大学教員になったみたいです。悔しい!(笑)

社会福祉士相談援助実習指導者の経験

社会福祉士相談援助実習指導者講習を受けました。実習指導者として社会福祉士相談援助実習にかかわることで、ソーシャルワーク教育に携わっているとアピールできるのではないかと思ったからです。もちろん、実習指導者講習を受けるだけでなく、実習生の受け入れも開始しました。
すると、疑問に思うようになったのです、ソーシャルワークって何ぞや?
ソーシャルワークを学びなおしていくうちに、小学生からの夢であった社会福祉士になって良かったのだと思うようになっていきました。

グループリーダー

私の施設ではいくつかのグループに分かれて利用者が在籍していますが、私もその内の一つのグループに所属していました。9年ぐらいずっとただの支援員でしたが、所属グループのリーダーが亡くなられ、僭越ながらリーダーとなりました。
グループマネジメントは本当に難しい。いろんな人がいて、いろんな価値観があって、その価値観をまとめ上げていくためにどんな働き方をすればよいか。
経験値としては非常によかったのですが、残念ながら私自身の大学教員になるためには執筆活動を優先したく、人をマネジメントするだけの余裕はなく、3年をすぎたころに解任していただきました(もちろん執筆活動を優先したいから、等という本音はかくして、マネジメント能力に自信がないという言い訳を用意しました)。

別グループへの異動:研究への目覚め

グループリーダーを解任してもらうと、別グループへ異動になりました。管理職には、一つのグループにとどまることなく、施設全体のアドバイザー的な役割を任命されました。まぁ、管理職からすると私の執筆活動なんて転職活動にほかならず知ったこっちゃないでしょう(何より、本音は知りませんからね)。
そんな役割を任命されつつ、任命される以前からずっと職場内の人材育成をし続けていたのですが、これを機に、本気で人材育成について考えるようになりました。というのもアンケート調査やインタビュー調査による職員の意見を聞くようになりました。それをどのように分析するか、質的研究法等勉強するようになりました。

リジェクトの嵐と大学教員公募への応募

こうして分析したものはどんどん論文投稿しました。実践報告も含め、年間4本ぐらい書き上げました。
そのほぼすべてがリジェクトされました。
まぁ、査読者のコメントを真摯に受け止められるようになってからコメントを見ると、おっしゃる通りというか、痛いところ突かれてるというか。。
いずれにしても研究者としての自分の弱さを痛感することになりました。

とはいえ、臨床経験もある私はまだ少し楽観的でした。
希望の勤務地にある大学が助教の公募を出していたので、応募することにしました。結果は書類選考をパスし、2次試験で不採用。

悔しい。というのも書類選考にパスできたということは研究業績が少なくとも、やはり臨床経験が少しプラスに働いているのかなと思い。。
この1年間で5件ぐらいたしか応募したと思います。
最後の5件目で採用の通知をいただきました。
ですが、辞退しました。
理由は勤務地と勤務条件等様々ありますが、最大の理由は家庭の事情ですね。
辞退する代わりに、妻からは博士課程に進学していいという条件をいただきました。

現在(2024)に至る

最近のnote記事には、日常についても書いています。

もうまさにこんな感じですね。この記事自体には非常勤講師のことはほとんど触れていませんが、そういうことも私にとっては大事な経験値ですね。

ここまで自分の過去を開示したのは初めてです。といっても、さして大したことを書いているわけではないのですが。
あえて言うなら、身バレするんじゃないかという心配ですね。
身バレしたら、その時はその時でオープンにしてみましょう。


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