8月12日に思う

1985(昭和60)年8月12日の18時57分頃、羽田発伊丹行きの日本航空123便(ボーイング747SR、機材番号JA8119)が群馬県多野郡上野村の山中に墜落し、乗客乗員520名が亡くなる(一方で4名生存)という現時点で単独での飛行機事故では史上最悪の事故から37年経とうとしています。

お盆で賑わっていた羽田空港を定刻より少し遅れて離陸し、伊豆大島上空を航行中に緊急事態宣言(スコーク77)を発報し、制御がままならない中何とか飛行を続けるも力尽きて墜落してしまいました。
改めて亡くなられた皆様に哀悼の意を表します。

原因はこの機材が以前伊丹空港で機体後部を滑走路に接触させてしまう事故に遭いボーイング社で修理をした際に、修理方法が完全ではなく修理した箇所から破断が発生して垂直尾翼の大部分が欠落し、さらに制御機能も喪失してしまったとされています。

ただそれを信じることなく陰謀論を持ち出してわざわざ本にしているヒトも少なからず居ました。

確かに墜落してから正式な現場特定までに時間がかかり過ぎていましたのでそう勘ぐるのも居るのだろうなとは思うのです。
実際墜落現場の確定が墜落した翌日の早朝で、上野村の当時の村長が宣言していますし。
その事を記すと長くなりますのでここでは割愛します。

さて、この機材をあの日みた記憶があるのです。

当時住んでいた家の近所の丘へ夕方上がって南の空をみていると、ジャンボ機らしいのをみかけたのです。
そもそもこの空域は横田空域と呼ばれる米軍の訓練空域で、普段は米軍機が低空で飛行しているのに、何でジャンボ機がいるのだろう?と小学生ながら不思議に思っていました。
そして家に帰ると旅客機が行方不明になったという臨時ニュースがテレビで流れていました。

大きくなり、改めてあの日の123便の航路を確認してみると間違いなくあの飛行機だったと確信しました。
位置的にスコーク77発報後では一番東の、横田基地にかなり近い位置でした。
客室乗務員は横田基地をみて不時着を覚悟したことでしょう。
しかしながらその後北西に旋回する格好になり、奥多摩~奥秩父山系の上空を進むことになったのですが。

私自身墜落現場(通称御巣鷹の尾根)には行ったことはないのですが、麓の上野村にある慰霊の園には伺ったことはあります。
今でこそ現場の国道は整備されていますが、当時は片側1車線だったそうで大変だったと思われます。

そして事故調査委員会から返却された墜落機の部品や遺族から提供を受けた遺品を集めて、安全啓発センター(通称SPC)が設置されました。
当初は羽田空港の整備場地区にあったそうですが、のちに羽田空港新整備場地区の事業所内に移転し拡充されたそうです。
123便以外で日本航空で発生した事故の事もまとめられ、安全とは何かというのを考えさせられる施設です。
基本的には日本航空の研修施設なのですが一般向けにも枠が設けられ見学ができるようになっています。
聞くところでは最大のライバルの会社の社長も訪れたそうです。
私も2度ほど伺いました。
展示物をみているとものはいわねど何かを訴えているように感じました。
ちなみに最初に伺ったときは同業他社さんの団体さん+私みたいな感じでした。
最初のうちはガヤガヤしていても最後は皆神妙な顔になっていたものです。
説明されていた担当者に実はあの日機材をみたのですと伝えると絶句されていましたが。

ちなみに一般向けの見学は平日の日中帯しかなく飛行機ファンでも中々行ったことがない方が多いと聞きます。
人数も大勢は入れませんし。

日本航空内でも123便の事故を直接知る社員も少なくなっており事故の伝承が課題になっているそうです。
SPCの説明員に若手を起用したり、証言を映像化したりして記憶を途切れないようにしているそうですし。

今日は安全とは何か、永遠ともいえるテーマを今一度かみしめる一日にもなるのかとも思います。

最後に。
ある旅行系の国家試験受験の講座に通っていたときに、元日本航空の客室乗務員の方と知り合いました。
123便の事を話しましたら、実は123便の直前にあたる福岡→羽田便に乗務していましたと教えていただきました。
JA8119はあの日は羽田→千歳→羽田→福岡→羽田→伊丹→羽田というタイトなスケジュールでした。
あの日JA8119が行方不明になってから社内は異様な空気だったとおっしゃっていました。




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